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後藤由紀恵『遠く呼ぶ声』(典々堂)

  第三歌集。働き、暮らす四十代の日々。一人で生きていく実感の強い歌集だ。歌集半ばで平成が幕を閉じる。年を重ねた身内が少しずつ世を去って行く。また新しい命の誕生もある。確かで静かな筆致で身の回りの生活を丁寧に描き出す。仕事の歌にもその描写力が活きている。歌集後半はコロナの日々が描かれる。コロナ禍での意識の持ち方は過去のものになったように思えるが、それらが歌の中に書き留められている。
 連作「春の呪文」が印象に残った。

蛇口はた床や言葉の少しずつゆるむ家にてちちははと暮らす(P18)
 実家に帰って来た主体。娘時代に暮らしていた実家はいつのまにか古びて、両親も年齢を重ねていた。両親は蛇口がしっかり閉められず水が少しずつ漏れている、床が緩んで音を立てる、両親との会話が滑らかに進まない、そんな風に何もかもが少しずつ緩んでいく家。しかし今、主体がいられる場所はそこしかないのだ。たとえ何かが緩んでいようとも、そこは傷ついた心身を癒してくれる場所であることも間違い無い。

ほんとうには壊れぬわれと知りながら熊の眠りに一年を過ぐ(P26)
 熊が冬眠するように、不活発な一年だった。心身の傷はそんなに簡単には癒えはしない。丸くなって眠って、少しでも力を回復するのだ。もうダメかも知れない、と思うことも時にはある。しかし自分は本当の意味では壊れない、それが分かっている。自分はきっとまた動き出すことができる。それが信じられるから、今は眠ることができるのだ。

やがてくる芽吹きのために筋力の萎えたるわれの荒地に水を(P43)
 やがて自分の身体は地面が春に芽吹くように、新しく成長するだろう。しかし今はまだだめだ。身体の筋力も心の筋力も衰えてしまっている。自分の心身を自在に動かすことができないのだ。その荒地のような自分に水をやりたい。誰かに水をやってくれと願っているよりは、自分で自分に水をやろうとしているように感じられる結句だ。

愛のさなかの声もまぼろしひったりと眼つむればいつしか冬野(P75)
 時には愛の仕草を思い出すこともある。そのさなかの声ももはや幻にすぎない。思い出すことを苦痛に感じて目をつむる。いつか心は冬の野のように寒々とした、しかし厳しく強いものへと変わってゆく。

しつけ糸ほどけぬような日々の中もう読まれない資料を捨てる(P82)
 仕事がまだ板につかない。しつけ糸で留めただけのような状態だ。そんなぎこちない感覚のままに、職場の資料を整理している。作るためにだけ作られたような資料、あるいは一時使われていたが、もうシステムが変わって読まれなくなった資料。そういったものを捨ててゆく。過去はそんな資料の堆積なのかもしれない。

産まぬままの身体につめるやわらかな藁のようなるあなたと思う(P97)
 テディベアのようなぬいぐるみを思い浮かべた。その身体に詰める藁。柔らかな藁をたっぷりつめると、ぬいぐるみの身体はできあがり、きちんと座ってくれるのだ。そんな藁のようなあなた。「産まぬ」という言葉はこの歌集を貫く一つのキーワードでもある。もちろん女性にとって人生のキーワードの一つでもある。

フランセのおじさんと言う時さみどりのクリームソーダは泡を立てたり(P113)
 伯父への挽歌。伯父は喫茶店経営をしていたのだろうか。店の名前は「フランセ」、そしてその店にまつわる記憶の飲み物は「さみどりのクリームソーダ」。カフェラッテでもフラペチーノでもない、クリームソーダはすぐれて昭和のアイテムだ。アイスクリームと真っ赤なチェリーで少し口を汚しながら緑のクリームソーダを啜っていた少女の頃の自分が、主体の記憶の中に立ち上がる。そこに共にいるのは笑顔の伯父だ。「フランセのおじさん」という呼びかけがやさしくやわらかい。

この身体ひとつがすべて洞ふかきところに灯る火を確かめて(P152)
 連作「春の呪文」は力のこもった一連だ。2011年にエジプトで新たに見つかった墓の中のミイラ女性ネヘメスバステト。神の歌姫であったという彼女が主体に憑依した歌と、主体自身の毎日の生活を描いた歌が並行して描かれる。歌集の段組みも少し高さを変えてあり、連作の構成意識を感じる。挙げた歌は、神の歌姫が人間の男性との恋愛に目覚め、禁忌を犯していく場面だ。歌うことは喉という肉体を使うこと。そして愛し合うことも肉体を使うことだ。身体以外は何も持たない。その身体の洞の奥深くに火が灯るとき、自分の愛の所在を確かめることができる。歌姫の激越な生と、現実の主体の淡々とした日常が、強い対比を以て詠われる。歌姫に対して、こうは生きられなかった、という主体の悲しみと寂しさが底流に感じられる。
 
旅をしても旅人たりしことのなきわたしの身体を濡らす夕立(P157)
 とても共感した歌。旅をしても旅人に成り得ない人がいる。また一方、旅をしていなくても常に旅人であり続ける人もいる。人はおそらくそのどちらか一方にしかなれない。主体は旅人には成れない自分を知っている。その自分の身体を濡らす夕立。濡れた身体が、どこへでも行けるが、どこへも行けない自分を認識させてくれるのだ。

この世しかなきこの世にてしろき雪つめたくあなたにふれたのだろう(P202)
 「この世」の対義語として「あの世」という語がある。しかしそれは言葉のみ、観念のみの話だ。私たちは実際には「この世」しか体感することができない。今、主体のいる「この世」に白い雪が降っている。それはおそらくあなたのところにも降っている。降って冷たくあなたに触れただろう。それを見ることはできなかった。雪を通して想像することしかできない。同じ「この世」にいても、あなたはとても遠いのだ。

典々堂 2023.10. 定価 本体2700円+税

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