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大辻隆弘『橡と石垣』(砂子屋書房)

 第十歌集。2015年1月から2022年3月までの長歌を含む414首を収める。教職の日々、平成を振り返る歌、コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻などが詠われる。他者の影が薄く、ほんの一握りの人を除いて、他人が名前だけの名詞のような存在に思われた。自然を描き、社会や生活を描きながら、作者の視線は常に自分を見つめている。

白藤の花の表裏にふれながら曇り日のしたに蜂は音する(P25)
 結句に惹かれた。蜂は音をたてる、でも、蜂の音がする、でもなく、
「蜂は音する」。「は」と動詞の使い方が絶妙と思った。上句の描写も細かい。

無花果は死屍のにほひと聞きしかど死屍といふいまだ嗅ぎしことなし(P41)
 無花果の匂いにそんな話があることは知らなかった。そんな変な匂いだとは思えないが。「死屍」に喩えられても「死屍」の匂いを嗅いだことはない。言った人は嗅いだことがあるのか、等と思ったのだ。「死屍といふ」のあとに「ものの匂い」等が省略されているのだろう。

恋をする子が帰りきてしづしづと仕まひゐし皿を捨て始めたり(P45)
 娘を詠った歌。恋をしている子が実家である主体の家に帰って来て、仕舞っていた皿を捨て始めた。恋をするということと、皿を捨てるということに直接の関連が無いもののリアリティがある。最近の事情は分からないが、以前はよくお中元お歳暮や結婚式の引き出物などでよく食器類がやり取りされた。いつか使うかもと仕舞いこまれた食器類はどこの家にでもあるはずだ。それを捨てているのだと取った。持ち物を捨てて、恋のために身軽になりたいのかもしれない。

むしろ作意は国威を超えて騒(さや)ぎけむ筆触は粗くときに掠れて(P75)
 藤田嗣治展の「アッツ島玉砕」をテーマにした歌。国威発揚のために御用画家として描いた絵だが、当局の意図と裏腹に戦争の悲惨さを描き出してしまった。用途を持つ物として絵を超えて、画家の表現意欲が表出してしまったのだ。主体が絵から感じた気持ちを上句に、絵の細部への描写が下句に描かれている。

「あり得たかも知れぬ人生」などはない八つ手の花がなまじろく咲く(P108)
 「あり得たかも知れぬ人生」の可能性を素材にした歌はよく見るが、それをない、と言い切ったところに惹かれた。そうは言ってもその可能性は主体の心の中に割り切れない形で残っているようだ。その思いが八つ手の花に対し、「なまじろく」という描写をさせるのだ。

あれはいつの試験監督しんしんと枇杷の木に降る雪を見てゐつ(P154)
 日常の本当に何でもない一コマが妙に頭の中に残っていることがある。それだけでなく、動画として再生される。勤務先の学校の定期考査の試験監督をしていた時、窓の外の枇杷の木に雪が降っているのを見ていた。ただそれだけなのだが、なぜか心に残っている。自分にもそういう記憶がある、と読者に思わせる一首だ。

生徒らがひたすら可愛らしくなりわが教職の終り近づく(P177)
 若い頃は生徒と本気で対立したこともあっただろう。生徒に本気で腹を立てたり、性格の良さに教師の側が心打たれたり、そうした本気のやり取りがあっただろう。生徒に及ぼす自分の力の限界などに悩んだこともあるかもしれない。しかし退職が近づき、自分の仕事の期限が見えてくると、生徒はただただ可愛らしい。主体自身が年を取ったこともあるし、どんな仕事も期限が見えてくると、一歩引いたような視線で見るということもあるだろう。

雨傘をひらけば雨はひらかれてわれのめぐりを濡らしはじめつ(P179)
 描写の歌。かなり強い降りの雨だと取った。そこで傘を開けば、一枚の布のように降っている雨がその部分だけ開かれる。そして傘の縁に沿って空間ができ、その回りのみの雨は濡らすのだ。傘を開いてから、一歩を踏み出すまでの短い時間を確実に描写している。

川のなかへ歩をすすめゆく鷺の白 やめておけ、そこは深い淀みだ(P185)
 白鷺が岸に近いところから川の中ほどへと進んでゆく。川は鷺の領域だから全く鷺自身には疑問も不安も無いはずだ。その鷺に向って主体は心の中で下句のように呼びかける。自分より川について知っている鷺に向って言ったのだろうか。淀みの実体を知っている主体が、自分自身に向って呼びかけたのではないか。一首や一連では分からないが、歌集一冊を通して読むと、そのように思えるのだ。

火焔瓶にて闘ふといふ、火焔瓶はつね敗れむとする者の武器(P250)
 ロシアによるウクライナ侵攻を詠んだ一連。ウクライナ側が火焔瓶で闘うとテレビのニュースなどで言ったのだろう。それに対する主体の感想は冷静だ。かつて火焔瓶で闘って敗れた者の姿が目に浮かんだのではないか。火焔瓶という武器が、敗れることが分かっている者の象徴のように見えているのだ。

砂子屋書房 2024.4. 定価 本体3000円+税

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