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渡英子『しづかな街』(本阿弥書店)

 第五歌集。2015年から2022年にかけての作品を収める。作者の住む東京だけでなく、かつて住んだ沖縄が大きな一つの場となっている。その他にも北海道、台湾、マカオ、バリ、イギリス、スペインなど、過去に訪れた場所も含めて様々な場が詠われる。また、白秋、漱石など明治の文人たちを描いた歌にも心を惹かれた。多様な時間と場所を豊かに含んだ一冊だ。

遅速あれどまためぐりあふ若夏の空翳らせて桐の花さく(P24)
 二句切れ、二句までは「桐の花」にかかると読んだ。その年によって若干の遅速はあるけれど、初夏になれば桐の花が咲く。初夏の空を翳らせるぐらいの大木が身近にあるのだろう。その桐の花が咲いた時、また今年もこの花に巡り合えた、また一年が経ったという思いが主体の中に湧く。初句二句の感慨を、三句以下の描写が美しく受け止めている。

眠りぎは「こわい、こわい」と云ふ人を置いて来しなり死にゆく人を(P41)
 義母を詠った一連。これ以上糖尿病の治療を続けられなくなり、人工透析中止を決断する主体とその夫。それは義母の死を意味していた。自らの死を怖れるように、眠ることを怖れる義母。しかしずっと付き添うこともできず、主体は病院を離れなくてはならない。死を予感しているであろう人が眠るのを怖がる、という事実に胸を衝かれた。

那覇におかず台北に置きし帝大を大王椰子の並木に仰ぐ(P67)
 沖縄に長く暮らした主体は沖縄に対し愛着の気持ちが強い。戦前、大日本帝国が7番目の帝国大学として設置した台北帝国大学。植民地化の象徴であるが、大日本帝国が台湾を重要視したから置いたということは間違い無い。ではなぜ那覇には帝大を置かなかったのか。沖縄は重要ではなかったのか。そんな思いが主体の胸を去来したのではないだろうか。

方言札ウェールズにもありしとふ東北も沖縄の子も下げし木の札(P87)
 詞書に「ウェールズ語喋る罰とぞ子の首に掛けられてゐしWelsh Not  本田一弘『あらがね』」と本田の一首を引いている。学校教育の場で方言を撲滅しようという行為が日本だけでなく、英国でも行われていた。人間の愚かさが国を越えて共通していることに寂しい驚きがある。方言も少数言語も一度滅びたら、復活させるのは並大抵ではない。文化の多様性はまず言語の多様性から始まるのではないか。

骨がらみに基地あることをかなしめど何もせぬなり美(ちゆ)ら海よ、吾は(P117)
 初句二句の認識が痛切だ。沖縄の人々の骨の上に基地がある、その事実をかなしむが、現実にはそれに対して何も行動を起こさない。そんな自分を主体は見つめている。伝わってくる無力感。それは読者のものでもあることを認識させる。

木曜は面会日なればこのみちを漱石門の青年歩む(P125)
 夏目坂を登っている主体。その傍を、漱石門下の青年が歩いている。時空を超えて、書生姿でやって来た。今日は木曜日で漱石先生が面会して下さる日なのだ。自分の書いた小説を風呂敷に包んで提げているのかもしれない。先生に会えるという期待で、青年は少し気分が高揚している。主体はそんな真昼の幻を楽しみ、歩を合わせるように坂を登って行く。

クイーン・ビクトリアの葬列を送る群衆に夏目金之助まじりて立てり(P126)
 詞書に「昨夜六時半女皇死去ス 一九〇一年一月二三日付け「ロンドン留学日記」」。英国のビクトリア朝の長であるビクトリア女王。その死の日付を見れば、まさに彼女が十九世紀の英国の繁栄の象徴であったことが実感される。二十世紀の幕開けから間もなく死去したビクトリア女王。歴史の偶然で、その葬列を送る群衆に若き漱石は混じっていた。大昔のようなほんの少し前のような二十世紀初頭。時空が歪んでふと漱石を身近に感じてしまう。

幻肢痛あるのだらうかゴアに眠る右腕のなきフランシスコに(P174)
 マカオを訪れた思い出からの一連。この一連を読むと、フランシスコ・ザビエルはインドのゴアに葬られているが、右腕上腕部はマカオに、下腕部はローマのジェズ教会にあるらしい。遺骸を聖遺物と為す、キリスト教の考え方からだが、キリスト者でない主体は、そんなザビエルが幻肢痛に悩まされているのではないかと空想する。宗教による文化の違いだが、ザビエルの生涯なども思われて、想像をかきたてられる一首だ。

いつも隣は空けておくなり黒眼鏡の白秋が来て座れるように(P180)
 白秋についての著作『メロディアの笛』の著者でもある作者にとって、白秋は歴史上の人物というより、古い知己のような存在なのだろう。黒眼鏡の白秋は、晩年、視力の衰えに苦しんだ白秋の姿だ。いつ彼が来てもいいように、ベンチの隣は空けておく。白秋が良く訪れた善福寺の池のそばのベンチに腰掛けている主体。このベンチを「白秋のベンチ」と名付け、池の亀を眺めながら、白秋を待っているのだ。

アララギの青春と思ふ歌寄越さぬ千樫を嘆く茂吉の声す(P211)
 この一首前の「肉太(ししぶと)の左千夫をはさみ歩(あり)く日の千樫と茂吉は右に左に(P210)」と合わせて味わいたい。大正、昭和と歌壇の中心的存在として日本の文学史に名を残す短歌結社「アララギ」。しかし最初から大御所的存在だったわけではなく、若い歌人を中心に一つの集団として少しずつまとまっていったのだ。そこでの先達的存在であった伊藤左千夫。左千夫を越えて成長していった茂吉や千樫。それは彼らの青春であったと同時に「アララギ」という集団の青春であり、日本の短歌文学の青春でもあったのだ。千樫と茂吉の人柄も映し出す、印象深い一首だ。

本阿弥書店 2024.3. 定価:3080円(本体2800円)




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