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大松逹知『ばんじろう』(六花書林)

 第六歌集。2017年から2022年(46歳から51歳)までの597首を収める。東京在住、私立の男子校の英語教師としての日常が基調となっている。本歌集の大きな主題として父の死がある。また、妻や、日々成長していく娘、という家族の姿も主題の一つである。ユーモアに包みながらも毎日の生活に感じる少しの違和感や、社会問題に対して充分に関われていないという思いも歌から伝わってくる。一冊を読み進む内に、「おもしろうてやがてかなしき・・・」という思いが湧いてくる。
 歌に使われている言語は、現代語と古語を存分に織り交ぜながら、自在である。作者は英語教師であり、英語のみならず言語に強い興味を抱いている。そうしたことも詩歌語として作者が使う言語に影響を与えているのかもしれない。

白き酢に白き胡椒をふりまいて餃子をひたす輪廻のさなか(P40)
 おいしく餃子を食べている場面。「白き酢」「白き胡椒」がいかにもおいしい食事という感じを高める。しかし主体にはこれが今輪廻の最中なのだという意識がある。父の死を描いた連作の次にある連作中の歌だ。父の死を悲しんでばかりもいられず、生きている人間として食事もするが、その食事の間にも生死の観念が主体の頭の中を回っている。

慰めることはできない慰めるこころあることただに伝える(P41)
 苦しんでいる他人を慰めることはできない。それは誰であっても同じこと。ただ、慰めようとする心を自分が持っていること、それを相手に伝えることはする。人は人を慰められないとしても、それで終わりではないと思わせてくれる歌だ。

「せっかくの沖縄なのに米兵とか上陸とかそれはそれでしょうけど。」(P78)
 沖縄への家族旅行を描いた一連「かねひで」より。〈かねひで〉は沖縄で有名なスーパーの名前だ。この掲出歌は妻の発言で構成されている。一連中これに先立つ歌に
〈かねひで〉で巻餠(ちんぴん)買って炮炮(ぽーぽー)買って、辺野古に行こうと言い出せず妻に(P77)
 があり、連作として合わせて読みたい。レジャーとして楽しい家族旅行として沖縄を満喫したい妻と、歴史的社会的視点で沖縄の現実を見たい主体との齟齬が描かれる。妻もそういう視点が皆無なわけではなく、「それはそれでしょうけど」と一応の同意を見せる。けど、それは短歌のお仲間と一緒に行って下さい、家族旅行はあくまで家族旅行として楽しみたい、と妻は言いたいのだろう。また主体は最初から返事が分かっているからなかなか切り出せないでいたのだ。
 また同じ一連の後の方に「母。」という詞書がついた、母の発言で構成された一首もある。
「沖縄に行くのはなんか嫌なのよ、中国も韓国もなんか嫌なのよ。」(P84)
 これは先の妻の発言と同じく、戦時中に沖縄、中国、韓国に先の世代がしてきたことを突き付けられることから逃げる姿勢だ。それが他人なら責めることもできるが、家族であれば責めて終わりという訳にはいかない。微妙な心理を描いた連作だ。一首では出せない連作の力を感じる。

わずかずつこころを見せる人のように冷めれば酸味すきとおりゆく(P96)
 ルワンダ産コーヒーを飲みながらの一首。コーヒーの味には苦味と共に酸味があるが、冷めれば酸味が際立ってくる豆なのだということが分かる。それを上句のように喩えた。ルワンダという悲惨な歴史を抱えた国が、コーヒーの産地として前を向こうとしていることにも重なるように思った。

●(くろまる)はわれの額を見つめおり斜めっているわれのくちびる(P125)
 「録画して授業を配信。」という詞書がついた歌。コロナ時の休校で授業を録画配信していた時のものだ。録画されながら、話す自分の口元が引き攣っていることを意識する。「斜めっている」という今どきの表現が歌にリアリティを添える。また一連には
いくばくか聞き惚れながらみずからの授業動画を夜ふけ見直す(P125)
 という歌もあり、授業配信の大変な労力と、しかもちょっと自分の声に聴き惚れるナルシストさを戯画化している視線の面白さが感じられる。あの頃、学校は本当に大変だった。だがその記憶は急激に忘れられつつある、とも思った。

〈労働〉を三時間ほど見ていたり 私服になって選手が帰る(P144)
 視点の転換が鮮やかな一首。これは野球観戦を楽しんでいた連作の最後の歌である。楽しいエンターテイメントとしての野球の試合も、選手からすれば仕事であり労働である。野球チームのユニフォームは職場の制服なのだ。試合が終われば制服を脱ぎ私服に着替えて帰る選手たち。その気づきに読者もハッとする。

歩けなく、一生歩けなくすれば、殺すよりずっと、良いのだという(P157)
 ガザが舞台の歌。一連の制作時期から、2023年10月に始まり現在(2024年8月)も続く、イスラエルのガザ侵攻より前の歌と思われる。これほど大規模でなくても戦闘が日常にある場所なのだ。一首前の
 デモ隊の脚を狙って撃つという軍のことガザという土地のこと(P157)
に続く歌だ。掲出歌の読点「、」に主体の忸怩たる気持ちが滲む。「殺すよりずっと良い」のは撃つ側の論理で、誰かを殺せばその回りの者が復讐に立ち上がる。しかし歩けなくすれば、回りの者は歩けない者の世話をしなければならず、撃った側に対して復讐することができない。だから殺すより怪我をさせる方がいいのだ、という理屈だ。実に論理的だが、人間としての倫理に欠ける、人の心の無い理屈だ。その理屈を、読点で区切りながら、確認するように主体は呟く。ここまで人は残酷になれるのだ、と再認識しながら。

コンビニの陳列棚が怖い朝〈選ぶ〉は〈そこからしか選べない〉(P164)
 コンビニは狭い面積で売り上げを出さなければいけないから、他のタイプの店より厳選した商品展開になっている。最も売れるものしか置いていないのだ。客はコンビニの陳列棚から自由に商品を選んでいるように見えながら、置いてある、既に誰かが選び抜いた商品からしか選べないのだ。切り捨てられた無数の選択肢には決して出会えることは無いのだ。それをある朝認識して、主体は少し怖いという気持ちを覚えている。

邪教から子をとりかえすこころもち〈感覚読み〉を撲ち滅ぼさん(P231)
 「英語とはつまり英文法。」という詞書のついた一首。同じ英語教師として思わず同意。というか英語教師以外の人にこの歌の面白味が分かるのだろうか…。日本の英語教育においては、長文であっても英文法を元に精読していた時代が長かったが、一時期、〈感覚読み〉みたいな、単語だけ調べて、前から前からふんわり読んでいく、という読み方が推奨された時期があった。英文法バキバキの精読はもう古い、みたいな空気だった。それに対して強い憤りを歌に表す主体。主体からすれば〈感覚読み〉は「撃ち滅ぼ」すべき「邪教」であり、そんな学習法から生徒を取返し、英文法に基づいた読み方を教え直したいのだ。初句と結句の大袈裟な言葉遣いが思わず笑いを誘う。このように戯画化して表現しつつ、主体は相当本気なのだと取った。

受け皿にこぼれるほどの水を与え、水は捨てたり教育のように(P237)
 一首前の歌、
しょぼしょぼと水をやってるドラセナの、育てていない育ってはいる(P236)
を受けて、観葉植物を育てている歌のように思われる。主体は水をやっているだけ、植物は勝手に育っている。受け皿にこぼれるほどの水を与えて、溢れそうな水は捨てる。必死で手をかけ、時間をかけた教育を捨てるように。浴びるほどの教育をかけても、相手の成長に役立つのはほんの少し。ほとんどの教育は流れて捨てられていくのだ。観葉植物を詠いながら、主体の職業である教師、ひいては教育について考えている。コストパフォーマンスなど考えてはいられない。たとえほとんど捨てられるとしても、必死で与え続けるしかない、そんな思いだろうか。

六花書林 2024.1. 定価:本体2500円[税別]

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