見出し画像

正岡豊『白い箱』(現代短歌社)

 1990年刊行の第一歌集以降、30年分の短歌作品からなる。一首として意味が理解できない歌が多いのだが、短歌の韻律に乗って読みすすめていくことができる。十首挙げるが、私の挙げる十首は意味的に理解できる(と自分が思うものに)偏っているだろう。タイトルの『白い箱』は何色にも染められる、何でも入れられる大きなもの、をイメージした。

春のない世界はなくてひとびとにしろがねのハモニカの午後の陽
 どんなに世相が暗くても春が来ないことはない。ハーモニカの格子状の穴に吹き込まれた息のイメージで午後の陽が降ってくる。「しろがねの」がハーモニカの修飾として美しい。

恋人がクリームパピロの缶入りを開けたのでハナミズキが咲いた
 お菓子の缶を開けることとハナミズキが咲くことの間には関連が無い。関連が無い事柄を「ので」で結びつけるのは短歌の文体の一つの型だと思う。恋人とクリームパピロの甘い取り合わせ。「パピロ」の音が可愛く、缶を開けるパカッという擬音も連想される。

そこにいてそこにいないで月光を掬いそこねた手が握れない
 初句と二句の矛盾する願望。人を愛し過ぎた時に抱く感情かも知れない。月光を掬おうとして掬い損ねた手。まだ手は月光を受けて開いたままだ。初句二句の願望を掛けた相手が月光を透かして浮かび上がる。

これからは雪にまみれて抱きあうこともあるかも 黄のプラタナス
 冬に向かう季節。これからはあなたと雪にまみれて抱き合うということもあるかも知れない。あなたは人間か、あるいは黄葉しているプラタナスの木か。プラタナスを見ながら、人を想っているのではないか。 

冬の陽とあなたとマリア観音がうつくしくわが内でかさなる
 キリシタン迫害の歴史を負っているマリア観音。人の信仰がこもった姿は美しい。主体の内部でそのマリア観音のとあなたが重なる。そこにさらに冬の陽のやさしく穏やかな光のイメージが重なってゆく。

こころはそりゃあレンタルは出来ないでしょう 着物で歩く四条烏丸
 七・五・七・七・七の韻律と取った。レンタル着物で歩いている観光客を見ている。四条烏丸という、あまり観光地では無い場所なのが効いている。いかにも普段の京都の街に溶け込んでいる姿。衣服はそのようにレンタル出来るが、心はレンタル出来ない。当たり前のことなので「そりゃあ」という強調が入る。

虹の口語 詩のリアス式海岸の波打ち際でわたす あなたに
 詩の言葉と心は、リアス式海岸の崖のように切り立って、かつ入り組んでいる。その激しい波が打ち寄せる波打ち際で、あなたに虹の口語を手渡す。崖に虹がかかるように、詩に心が届いていく。

わたしはたしかにそこにはたどりつけないがかき氷に載せてるさくらんぼ
 かき氷の氷の山の頂上にさくらんぼが載せてある。手の届かない、辿り着けない山のようなものが自分の前にあり、その頂上にはなにか美しいものがあるように思えている。例えば目の前のこのかき氷の上のさくらんぼのように。そう考えると、辿り着けないことの不全感が、却って甘美なように思えて来る。

脇役になるとかならないとかじゃなくぎゅっと生レモンを絞りたい
 ぎゅっと生レモンを絞るのは、牡蠣フライにか唐揚げにか。レモンを絞る時の快感と充実感。今、自分の人生の主役になれず、脇役に廻らされているような気がしているが、それはともかく置いておいて、手の中で何かをぎゅっと絞ってやりたいのだ。

わき目も振らずひとを愛していた頃はまだ海だった空港に来た
 「~海だった」までが「空港」にかかると取った。過去形の「た」を効果的に二回重ねている。もうそこは空港になっていて海ではない。自分はもうあの頃のように人を愛していない。その愛が空しく終わったというよりは、穏やかなものになったような印象を受けた。その空港からまた新たな旅が始まるのだろう。

現代短歌社 2023.12. 定価:2700円+税


この記事が参加している募集

読書感想文

今日の短歌