[小説] リサコのために|039|九、理沙子 (1)
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九、理沙子
リサコには幼い頃から何度も繰り返し見ている夢がある。
コンクリートの冷たい床と錆びた扉。
まるで牢獄のような部屋の片隅で、膝を抱えてうずくまっている夢。
夢の中でリサコは待っている。
何を?
わからない。
何かを待っている。
・・・
前の席の生徒が椅子を引いた振動で彼女は急激に現実へと引き戻された。静まりかえった教室。担任の曜子先生が黒板に難解な数式を書いている。リサコはぼんやりした頭で懸命に現状を思い出した。
…ああ、数学の授業中だった。すっかり眠っていたんだ。
夏休みが終わってすぐ、九月の退屈な午後。窓際席の後方に位置するリサコに居眠りするなと言ってもムリな相談である。ノートを見下ろすとヨダレが数滴。慌てて制服の袖でふき取った。ぐるりと教室を見回すと、クラスの半分以上は心地よい睡眠を貪っているのが見えた。
こんな天気のいい日に数学なんてやってらんないな。
リサコはさっきまで見ていた夢に思いを走らせた。コンクリートの冷たい床と錆びた扉。またあの夢だ。ここのところ数日おきに見ている。さすがにこんなに繰り返されると気味が悪い。
リサコは中学二年生。学校の成績は下の中くらい。
授業には全く身が入らない。友達も少ない。
というのも、リサコには誰にも言えない秘密があるのだった。
リサコは時間を飛ばすことができる。
嫌なことや見たくないことがあったときにそっと目を閉じ、再び開けると、もうその嫌なことが終わった後になっているのだった。
子供のころ、これは皆がやっていることかと思っていたが、小学校に上がる前くらいに母親に何気なく話したら、とても心配されてしまって、それ以来、自分だけの秘密にしている。
リサコはそんな感じで嫌なことを飛ばして来たので、自分がもう中学生である実感があまりなかった。
精神的にも成長がのんびりで、同級生たちとはあまり話が合わなかった。
そんなリサコが、学校で唯一尊敬している曜子先生の授業をぼんやりと聞いていると、事務の先生が教室に顔を出した。
手招きされた曜子先生がコソコソと事務の先生と話をしてから、急用ができたのでこの後は自習にします、と言った。
クラスの面々は、えーっと形ばかり残念がり、そそくさと教科書をしまい込んでしまった。
リサコは読みかけの漫画を読もうと、こっそり机の中から取り出したところで、曜子先生に呼ばれた。
「山本さん。ちょっと来てくれる?」
リサコの心臓がドキリと鳴った。
また、何か悪いことをしたと怒られるのだろうか?
リサコはこれまでも、身に覚えのないことで怒られることがしばしばあった。
緊張のためか、体がまるで自分のものではないかのように力が入らなくなってしまった。
リサコはやっと無言で立ち上がると、曜子先生と事務の先生について職員室へ向かった。
職員室に入ると、曜子先生は、生徒の個人面談に使う個室に入るように言った。
そこには校長先生とスクールカウンセラーの先生が待っていた。
リサコはこのカウンセラーが苦手だった。
いつもニヤニヤしているし、不潔な眼鏡の向こうの濁った眼が薄気味悪いのだ。
たしか、河原とか言ったか。
リサコは促されるままに椅子に座ったが、本能的に河原の正面は避けて座った。
「山本さん。お伝えしにくいことを言わなくてはなりません。」
河原が、極力ニヤニヤしないように努力しているような表情で言った。
この人は、別に笑おうとしているのはない。緊張するとニヤけちゃうのだ。
リサコはそのことを痛いほど知っていたが、河原に心を許することは無理…と思った。
「さきほど、警察の方から連絡がありましてね…。あなたのお母さんが事故にあわれて意識不明の重体だそうです。」
河原の眼鏡がキランと光ったところでリサコの意識は飛んだ。
気が付くと、葬式の会場にいた。
リサコは祭壇から一番遠くの後ろの席に座っていた。
「リサコや。」
隣で声がしたので顔を向けると、向かいの家のおじいちゃん・茂雄がリサコの手を握りながら話しかけてくれているところだった。
育児放棄の父親と病気がちな母親の代わりにリサコの面倒をずっと見てくれているご近所さんである。
事実上、リサコの育ての父なのだった。
「お母さんのお葬式だよ。お別れをしないとね。」
祭壇を見ると、母親の写真が飾られていた。
最前列右側には、見慣れた背中が縮こまって震えているのが見えた。
父だ…。
母親が死んだ記憶がなかったので激しく動揺した。
「リサコや。辛いことだけど、しっかり目をあけて見ておくんだ。君を産んで大切に育ててくれたお母さんなのだから。」
茂雄の声が遠くに聞こえた。リサコは母親に遺影を凝視した。
息が荒くなっていく。呼吸を整えようとしたが、苦しかった。
「リサコや。息を吸って、止めて…ゆっくり吐いて~だよ。」
茂雄が小さな声で言った。
それは彼がいつもリサコに言って聞かせている苦しくなったときの大事に呼吸法だった。
リサコは素直に実行した。
多少、息苦しさが改善された。
その後、葬式は数分で終わり、参列者がゾロゾロと帰って行った。
後には父親の幡多蔵と、茂雄、リサコだけが残った。
幡多蔵はいつまでもグズグズ泣いていて立ち上がりそうにもなかった。
リサコは茂雄に手を引かれて棺桶のところまで行った。
棺桶の窓は開かれていた。
茂雄に促されて恐る恐る覗くと、母親の顔がそこにあった。
まるで眠っているようだった。なぜかニットの帽子をかぶっていた。
母親の顔を見ても、リサコには彼女が死んでいる実感が持てなかった。
ただただ茫然と、まるで人形のように化粧をされて横たわる母親を見下ろしていた。
気が付くとリサコはベッドで寝ていた。リサコの部屋だった。
起き上がり、まわりを確認すると、どうやら朝のようだった。
階下に降りてリビングに入ると幡多蔵がソファーで寝ていた。
テーブルの上にビールの缶がいくつも散らばっていて、悪臭がした。
肌寒かったのでカレンダーを確認すると、12月のようだった。
数ヶ月、時間が飛んだようだ。
眠りこける父親に毛布を掛けてやり、リサコはそっと両親の寝室に入った。
もちろん母親はいなかった。
母は本当に死んだのだろうか。
まるで実感がなかった。
両親の寝室には幡多蔵の加齢臭が強く漂っていた。
リサコの知らない間に、母親が生きていた形跡がどんどん失われている気がして焦った。
幸い、母親の化粧台はそのまま残されているようだった。
さすがに幡多蔵もここには手を加えられずにいるらしい。
リサコは、いつも母親が座っていた小さな椅子に腰を下ろし、化粧台の引き出しを一つづつ開けて行った。
引き出しには化粧品やアクセサリーがバラバラと入っていた。
特に変わったものはなさそうだな…と思って一番下の引き出しをあけたときに、何か奥に引っかかりを感じた。
引き出しを取り出して見ると、小さな紙が奥の方でくしゃくしゃになっていた。
広げてみると、次のように書いてあった。
KOTOKO
J8qx9445
何かのパスワードかな?
リサコは少し考えてから、押し入れの奥にしまい込まれたノートパソコンのことを思い出した。
リサコは、母親が時々こっそりパソコンを持ち出して何かしているのを知っていた。
幡多蔵はパソコンのパの字も興味がないタイプなので、持ち出しても気が付かないだろう。
リサコは母親のメモとパソコンを自分の部屋へと持ち込んだ。
電源をつけると、普通に立ち上がった。
デスクトップにはインターネットにつなぐためのアイコンとゴミ箱しかなかった。
実に母親らしい。
インターネットのアイコンをクリックしたがどこにも繋がらなかった。
このパソコンはネットに繋がっていないのだ。
パソコンと一緒にしまわれていた機械を使えばインターネットに繋がることは想像できたが、どうやるのかわからなかった。
リサコはあきらめてパソコンを自分の部屋に隠した。
あとでやり方を調べよう。
階下に降りると、幡多蔵が起きてテレビを見ていた。
父親が見そうもない変な映画が流れていたので、おそらく目は開いているが、頭はどこかよそに行っている状態と思われた。
恐ろしい映画だった。
ちょうど登場人物が天井から垂れ下がったロープで首を吊ろうとしているところだった。
「妻と母を演じることに疲れました。」
テレビの中の女優さんが台詞を言った。
リサコはその場面に釘付けになってしまった。
テレビの中のことと解っているのに、どうしてもその女優さんが母親に見えてしかたなかった。
幡多蔵がリサコがいることに気が付き、ゆっくりと振り返った。
目が座っている。
「リサコ。いたのかよ。酒買って来いよ。」
「未成年には売ってくれないよ。」
リサコが反論すると、幡多蔵はムッとした顔した。
「村田商店なら売ってくれるだろう。行ってこい。」
ポケットからくしゃくしゃの千円札を取り出すと、リサコに投げつけながら幡多蔵が言った。
丸められたお札は遠くには飛ばずに、床にポトリと落ちた。
リサコは黙ってお札を拾うと家を出た。
村田商店はリサコが小さいころからお使いに行っている店なので、確かに酒でも何でも売ってくれる。
外に出ると、空気がひんやりしていた。
時計を見るのを忘れたので時間がわからなかったが、夕暮れ時のようだった。
上着を羽織るのを忘れてきたので、とても寒かった。
リサコは、嫌だなぁ…と思って目を閉じた。
目を閉じると、リサコは家の中にいた。
お向かいの家。茂雄の家だった。
ここは第二の家のようなものだ。
ただ、中学生になってからはあまり来ていなかったので、久しぶりだった。
リサコはおじいちゃんの自慢のカウンター席に座っていた。
そこには今日が何年何日かわかる積み木型のカレンダーが置かれている。
それをチラッと見ると、2008年1月9日水曜日とあった。
リサコの隣に男の子が座っていた。
もっさりした黒髪で顔が半分隠れている男の子だった。
どこかで見たような気がした。
「良介がね、今日からおじいちゃんちで暮らすことになったんだ。」
おじいちゃんは二人にホットミルクを作ってくれた。
この子、良介か。
良介は、幼いころによく一緒に遊んでいたおじいちゃんの孫だった。
彼の両親は出張が多いとのことで、よく預けられていたのだ。
確かリサコよりいくつか年下だったと記憶していた。
ここ数年見なかったけど。ずいぶん大きくなったものだ。
リサコは良介のもっさりした前髪に手を伸ばした。
良介はそれを少し避けるような素振りを見せたが触らせてくれた。
前髪をよけて彼の目を覗き込む。
幼いころと変わらない可愛い目がそこにはあった。
リサコと目があうと、良介は無言で前髪を触って余計に顔を隠してしまった。
一緒に暮らすって、どういうことだろう?
リサコは説明が続くのかと思いおじいちゃんの顔を見たが、それ以上は何も教えてくれなかった。
良介はちらっとリサコの方に顔を向けると、ホットミルクを一気に飲みほし、奥の部屋へ行ってしまった。
おじいちゃんは肩をすくめて「恥ずかしがり屋なもんでね」と言った。
数年前にはよく一緒に遊んでいたのに、何を恥ずかしがるのか、とリサコは思った。
久しぶりに会えたというのに…。
その後のリサコは、気が付くと数日時間がたっていて、数時間過ごすとまた時間が飛ぶ…という生活を繰り返した。
以前にもまして時間が飛ぶ頻度と長さがどんどん増えて行っているようだった。
父親の幡多蔵は毎日飲んだくれていて、時々部下と思われるガラのわるいおじさんが家に出入りしていた。
リサコも父親が何の仕事をしているのか詳しく知らなかったが、どうやら出勤しなくても、部下の方が家に来て仕事ができているようだった。
父親がそんな状態なので、リサコはほとんど茂雄の家で過ごしていた。
茂雄の家にいると、時間が飛ぶことはあまりなかった。
おじいちゃんの家ではリビングで良介とゲームなどして過ごしていた。
良介は相変わらず無口でリサコに対しても心を開いている様子は全くなかったが、ゲームをしたり映画を観たり、何となく一緒には過ごしてくれていた。
詳しくはわからないが、彼にも何か辛いことがあったのかも…とリサコは感じていた。
ある日、良介がおじいちゃんのレコードプレイヤーを分解しているのに遭遇した。
動かなくなったから直してるとのことだった。
それを見てリサコはいいことを思いついた。
「ねえ、良介。あんたパソコンにも詳しいの?」
良介は顔をあげてリサコの方を見た。
相変わらず目は隠れていたが興味を持ったことが解った。
さっそくリサコは家から母親のノートパソコンとインターネット接続に使うもの一式を持ち出してきた。
「インターネットに繋ぎたいんだけど。」
良介はインターネットに使う機械を手に取って確認すると「これはいらない」とリサコに戻した。
そして、ノートパソコンだけを胸に抱えると、奥の自分の部屋へと歩始めた。
少し行って振り返ると、リサコがついて来ていないことに気が付き、小さく手招きをした。
リサコは良介の後を追って彼の部屋に入った。
良介の部屋は少々異常だった。
壁中にさまざまなからくり時計がかかっていて、それぞれが別々の時間を指している。
チクタクチクタク…。
まるで時間が迫ってきているような部屋だった。うわ…とてもこんな部屋では落ち着いて暮らせないわ…。
それに、少し独特の香りがした。
香ばしいようなお香のようなにおいだ。嫌いではなかった。
良介はいろいろなコードが入っているカゴの中をゴソゴソかき回して何かを探していた。
そいて、細い線を見つけると、それの片方の先をリサコの母親のパソコンに差し、もう片方を彼の机の上に乗っている機械に差した。
パソコンのフタを開けて電源ボタンを押す。
パソコンが起動すると、リサコが見たこともない画面を開いて、カタカタと数値を打ち込んだ。
良介がキーボードを叩くスピードがとても速く美しかったので、リサコはほれぼれとそれを見ていた。
良介は数値を入力していた画面を閉じると、デスクトップにあるインターネットのアイコンを開いた。
画面が開き、そこに検索サイトが表示された。
繋がったのだ。
良介が「できたよ」とばかりに無言でこちらを振り向いた。
「それ、お母さんのパソコンなんだけど、今まで見ていたサイトとかわかる?」
それを聞いて良介は無言しばらくこっちを見ていたが、画面を操作して、恐らく母が前回見ていたページを開いた。
何かのログイン画面が表示された。
リサコはポケットから例のメモを取り出し良介に渡した。
良介はしばらくそのメモを見つめてから入力した。
ブログサイトの管理画面が表示された。
「これ、リサコのお母さんのサイト?」
良介が口を開いた。
「そう…だと思う。私も初めて見た。」
「ここに行くと、最新の記事が見れるけど…見る?」
良介が画面を指さしながら言った。
「うん、見る。」
リサコが答えると、良介はカチッとリンクをクリックした。
記事が表示された。
二人は黙って最新記事を読み始めた。
(つづく)
[小説] リサコのために|040|九、理沙子 (2) →
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