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[小説] リサコのために|040|九、理沙子 (2)

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2007.9.3 MON 06:24 KOTOKO

今日で夏休みもおしまい。
理沙子は学校が好きではないようだけど、ちゃんと登校するだろうか。

あの子も、急に家に友達を連れて来たり、お泊りしたいなど言ったかと思えば、友達なんていない…という態度を取ったり、まるで一貫性がない。

思春期にありがちなことなのだろうか?

あと30分もしたら彼女を起しに行かないといけない。
夏休み明け第一日目はいったいどんな気持ちで目覚めるのでしょうか。

問題は旦那だ。
夕べも旦那は夜遅く酔っ払って帰って来た。

帰って来るなり、私を起こして、いつものように髪を引っ張ったり、あちこち噛みついたり、腰を蹴ったりしてきて、彼の特別な時間を楽しんでいた。

私は理沙子を起こさないように必死で耐えるのに精いっぱい。

もう、これ以上続けるのは限界かもしれない。
いっそ全てを終わりにしてしまいたい。
もう私は平静を装うことに疲れました。

私をこの世に繋ぎとめているのは、理沙子。そうあなたただひとりなのです。

 この投稿を最後に、母親のブログは終わっていた。

 リサコと良介は黙ってこれを読んだ。
 しばらく二人はじっと黙って画面を見つめていた。

「ねえ、私の母さんが死んだのって何日?」

 画面から目を放さずにリサコは良介に尋ねた。

「知らない。」

 良介はぼそりと言った。

 リサコは自分を産み育ててくれた母親のことを何も解っていなかったと思い知ったのであった。

 なぜ、何も話してくれなかったのだろう。
 母さんはひとりで苦しんでいた。
 なぜ、わたしは気が付けなかったのだろう。

 母さんが死んだことすら実感がない。
 何日に死んで何月何日に葬式をしたのかもわからない。

 こんな私は存在しない方がいいのではないか。
 私のせいで母さんが死んだのではないか。

 リサコの中で思考がグルグル回転し始めて、吐きそうになってきた。

「…けど、どうする?」

 急に良介の声が入って来て、リサコの思考は中断された。
 しかし、最初の方が聞き取れなかった。

「え?」

「ブログの記事データをCSVで落とせるけど、どうする?」

「何それ? それしたらどうなるの?」

「パソコンがネットに繋がってなくてもいつでも全記事が読める。」

 リサコは考えた。
 これ以上、母さんのブログを読む?

 いや、無理。

「ありがとう良介。でもいいや。もう読まない。」

 リサコはもう少し考えた。


 この記憶は私には重すぎる。


「ねえ、良介。そのブログの記事を全部完全に消すことはできるの?」

 良介は少し考えてから、頷いた。

「できるよ。このブログを退会すればデータは全て削除されるはず。」

「じゃあ、それ、やって。」

 良介は返事のかわりにじっとリサコの顔を見返した。
 もっさりした前髪の間から小鹿のような瞳が覗いているのが見えた。

「いいの?」

「うん。いいの。私はこんなこと知らなかった。知らなかったことにするの。」

 良介はしばらくリサコを見ていたが、やがて納得したのかカチャカチャとパソコンを操作してから、小さな声で「できたよ」と言った。

 リサコも小さな声で「ありがとう」と言った。

「ねえ、約束。このことはおじいちゃんには内緒にして。お願い。」

 良介が了解の旨を示したので、リサコは彼の手を取り、無理やり自分の小指を良介の小指に絡ませた。

 彼は驚いて身を引いたがすぐにリサコが何をしようとしているのか把握し、小指に力を入れてきた。

「ゆびきりげんまんだよ。」

 リサコの言葉に良介はうんうん、と何度も頷いてみせた。
 これは小さいころに二人がよくやっていた約束の方法だった。
 当時は歌もうたっていたが、それは省略した。

 なぜか急に、幼いころの関係に戻りたくてリサコはそうしたのであった。
 なんだか再会した良介が自分の殻の中に閉じこもっているように見えたから…。

 約束どおり、良介はこのことを誰にも話さなかった。

 リサコは母親のノートパソコンを自宅の押し入れへと仕舞い込むと、もうその存在自体を綺麗さっぱり忘れてしまったのだった。

 それから一年後。
 幡多蔵がリサコに対して暴力を振るうようになった。

 リサコは幡多蔵の暴力が始まると目を閉じた。
 そして目を開けると全てが終わっていた。体のあちこちが痛んだ。
 だが、顔を殴られていることは一度もなかった。

 そんな生活をしているうちに、リサコはいつのまにか高校生になっていた。
 受験をした記憶はまるでなかったが、高校生になっていた。

 友達はひとりもできなかった。
 このところ、時間の跳躍が著しく、友人を作っても辻褄を併せるのがもう無理な状態となっていた。

 自分の時間が飛んでいる間に別の自分が何かしている…そのことにリサコは薄々感づいていた。
 常に誰かが一緒にいるような、自分の体が自分のものではない感覚が常にあり、それは日に日に強くなっていた。

 誰かに…誰かに話さないと。

 ある日、リサコはそう思った。

 その時、リサコは父親が暴れたらしい台所にひとり佇んでいた。
 直前まで何があったのかわからなかった。
 あたりに割れた食器が散乱し、いつものように脇腹がひどく痛んでいた。

 父親はもう家の中にはないようだった。

 これ以上、これを自分独りで抱えていたら、いつか父親に殺されるか、自分も母親のように自らを殺してしまうのではと、リサコは恐れた。

 そう、彼女の中では、いつかみたテレビドラマと自分の母親の死が混同してしまっていたのだ。

 時計を見ると夜の9時だった。

 リサコは彼女の唯一の居場所である、向かいの家。おじいちゃんと良介の家へと向かった。

 家に入ると、おじいちゃんがリビングに独り寛いでいるところだった。
 リサコはこの家の鍵を持っていて、好きな時に入ってよいと言われている。

「おや、こんな時間にどうしたんだい?」

 おじいちゃんは心配そうな顔でこちらを見ていた。

 その顔を見ると、とてもじゃないけどおじいちゃんには話せないと思った。

「良介は?」

「部屋にいるけど、どうしたんだい?」

 それを聞くと、リサコは黙ってリビングの奥にある良介の部屋に向かった。

「リサコや、ちょっと待ちなさい。」

 それを茂雄が止めた。

「こんな時間に良介に何の用なんだい?」

「相談したいことがあるの。」

「今じゃなければいけないことかい?」

 リサコは頷いた。茂雄はリサコのただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう。

「何があったのか知らないけど、それはおじいちゃんには話せないことなのかい?」

「うん…ごめん。良介に話したいの。」

 茂雄は少し黙ってリサコを見ていた。リサコは茂雄が大事なことを言おうとしているのを察知して、彼の言葉を待った。

「余計な心配かもしれないけど、君たちもそろそろ年頃になってきたからね。」

 茂雄の言わんとしていることを理解するのに、リサコは少々時間がかかった。
 そして理解すると、可笑しくなって思わず吹き出してしまった。

「おじいちゃん、それは本当に余計な心配だよ。」

 リサコはにっこり微笑んで見せてから、良介の部屋の前へ行った。
 後ろに茂雄の視線を感じながらドアをノックする。

 カチャっとドアが開き、隙間から良介の顔が見えた。
 リサコの声は聞こえていただろうから、来るのはわかっていただろう。

 良介は彼女を部屋に招き入れた。

 部屋に入って良介の姿を見るなり、リサコはいささか驚いた。

 彼女が記憶していたよりも、ずっと背が伸びていて、髪が金髪になっていた。
 壁中にかけられていた時計がはずされて、代わりにロックバンドのポスターが所せましと貼られていた。

 私…どれくらい良介に会ってなかったのだろう…。

 リサコはまた失った時間を感じるのであった。

「何? その髪?」

 リサコが一歩近づくと、良介は一歩後ずさった。
 恥ずかしそうに前髪に触っている。金髪になってももっさり前髪は変わりなかった。

「似合ってるけど」

 さりげなくリサコは言ったが、それで良介の口角が少し上がった。
 喜んだようだ。

「それで、何なの?」

 良介が言った。
 リサコはシャツの裾をまくって肋骨のあたりを良介に見せた。

 驚いた良介は「え、ちょっと…」と言いながら慌てて目をそらした。

 それでもリサコがシャツをまくったまま立っているので、ようやく良介はリサコの身体に視線を走らせた。
 そして気が付いた。そこに無数の痣があることに。

 良介は、一歩二歩とリサコに近寄り、もう一度痣を確認すると、リサコの目を覗き込んだ。
 金髪の前髪の間にキラリと小鹿の瞳が光った。

「…おじさんに…あいつにやられたの?」

 恐る恐る尋ねる良介にリサコは頷いた。

 みるみるうちに良介の顔が憤怒の形相となった。

「あの野郎…ぶっころす。」

 良介が飛び出して行こうとしたので、リサコは慌てて彼の腕をつかんで止めた。

「今、家にいないから。それにあんたが殺されちゃう。」

 良介は振り返ってリサコを見ると、乱暴に腕を振りほどいた。
 その表情には先ほどまでの瞬発的な怒りは消えていたが、全身から怒りのエネルギーを放っているかのように感じた。

「私ね、時間を飛ばすことができるんだ。私にとっては当たり前のことだったんだけど。でも、最近、失っている時間の方がずっと長くて…自分ではもうコントロールもできなくて、このままじゃ、私…」

 そこまで言うとリサコは泣き出した。
 リサコが突然泣いたので、良介は狼狽えてしまったようだ。
 あたふたと腕を動かしてから、そっとリサコの肩を抱いてくれた。

 それから優しい声で言った。

「大人に相談しようよ。俺じゃあどうしようもできない。じいちゃんに話してくれる? 一緒に話すから。」

 リサコは頷き、二人は連れ立って茂雄のいるリビングに出て行った。

 そして、リサコは自分に起こっていることを全て茂雄に話して聞かせた。

 茂雄は黙ってリサコの話に耳を傾けていた。

(つづく)
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