見出し画像

生きづらさを感じたら日本を出る選択も検討してほしい

社会の中で、生きづらいと感じている人は多いだろう。私もその一人として多少の生きづらさを覚える一人だ。

しかし、住む国が変われば社会概念も大きく異なり、生きづらさが薄れるかもしれない。

まさにそれを地で行くような私の体験談をつらつらと書きたい。長文になるがそこはご容赦を。

少なくとも、私と同じ種類の生きづらさを感じたことがある人には共感していただけると信じている。

プロローグ

「どちらかといえば衝動的に動くタイプで、失敗も多い」

それが私が持つ生まれつきのキャラクターである。

一部では年齢相応の落ち着きが評価されているが、実はそちらの私は本来のキャラクターではない。

本来のキャラクターは落ち着きと無縁。子どもの頃は問題児だと言われてきたが、今も根っこのところではそのキャラクターのままだ。

ちなみに、その傾向において「グレーゾーン」にあることは過去に診断済みである。特に治療の必要はないらしいので、診断後の受診等はせず今に至っている。

グレーゾーンは「普通」と同列に見られるが、実際には普通の人と同じように社会に馴染むのが難しい。それを大きなハンデだと感じることもある。

とはいえ、それを免罪符に出来るほど世の中甘くはないことも重々承知だ。

ゆえに、「普通」の人が想像できないほどの努力を長年積み重ねつつ、今も「一見普通の人」を演じ続けている。

本来とは違う自分を演じ続ける辛さを感じていたが…

最近はそんな演技もようやく板についてきたようだ。今は若い頃ほどの問題児ではなくなっている。

たまに信じられないようなミスはするが、日頃の努力が功を奏してお許しをいただくことも多い。ありがたや。

かつて周囲を困らせた衝動的な行動もなりを潜めており、今は平穏な日々を過ごせているのでご安心いただきたい。

ただ、慣れたとはいえ、本来の自分とはかけ離れたキャラクターを演じ続けるのは中々辛いものがある。

自分を殺して違うキャラクターを演じているのだから当然かもしれない。

それでも心折れずにこの演技を続けてこられたのは、一度日本を出て本来の自分をそのまま受け入れてくれる社会に救われたからだと思う。

その経験がなければ私は今こうやって生きていられたかどうかもわからない。それを思うとあの時日本を出られた僥倖にただ感謝しかない。

日本社会では異質な存在は非常に生きづらい

この日本は、衝動性の高い私には生きづらい国だ。そもそも空気を読むのが非常に苦手だし。

私のように日本社会のスタンダードとはかけ離れた人間が、なぜこの国に生まれてしまったのだろうか?と今も考えることがある。

少なくとも、子どもの頃から私の周囲に衝動性の高い人はほとんどいない。

それが社会では「普通」であると母親は言い、「なぜお前は普通にできないのか」とことあるごとに泣かれたものだ。

世間で言う「普通の人」だった母親は、自分とはかけ離れた「普通ではない子ども」を持ってさぞや苦労したことだろう。

少し大きくなってからはそんな苦労を親にさせたことを申し訳なく思い、自分がこの世に生を受けてしまった意味をいつも考えては悩み続けてきた。

また、他の人とは違う自分に深い嫌悪感を覚えてきたことも確かだ。

それが高じて、自己犠牲的な行為で自分を罰するような愚挙もよく行った。

そうしないと日本の社会で私のように異質な存在が生きることが許されないような気がしていたのだ。

海外に行くことが決まって取り乱したがそれは「転機」だった

しかし、そんな私に大きな転機が訪れた。

夫に海外への転勤命令が出て、同時に家族の帯同も命じられたのだ。

そのことを知った時、私は自分でも驚くほど取り乱し、実家の親兄弟に頼るほど心身が消耗してしまった。

私は衝動性は高いものの、あまり大きな生活の変化は好まない。

生活環境が変わる度に、その環境に合わせて自分の「演技」を変える必要が生じるのは非常に辛いことだからだ。

ましてや、日本と全く異なる環境となる海外生活などしたら、それこそアイデンティティの崩壊を招きかねない。だからこそ取り乱したといえよう。

しかし、「会社の命令に逆らえば生活が成り立たぬ」と周囲から説得され、泣く泣くその事実を受け入れるに至った。

生まれて初めて「本来の自分が受け入れられた」と感じた海外生活

ところが、結果的にそれが私の救いとなった。

移り住んだ海外の街で、生まれて初めて本来の自分が受け入れられたのだ。

最初は不安しかなかった海外生活だが、引っ越し後数日であることに気づいた。日本と違って「世間の目」を気にせずに済むことだ。

正確には、その国におけるタブーを避ける必要はあり、文化の違いに戸惑いながらもその国ならではの不文律なルールにも従った。

そんな海外生活の中では、日本では当たり前だとされていたことが非常識だとされることもよくあった。

とりわけ、日本人の曖昧さや空気を読む点は「信用できない人」だとされて嫌われたし、集団で動くのを好んで一人でさっと行動できない点もあまり評価されなかった。

逆に、私が持つ衝動性や落ち着きのなさ、おっちょこちょいな部分がなぜか好意的に評価された。

現地で友人になった女性たちには、

「日本人は裏表がある人が多くて馴染めないけど、楓のキャラクターは日本人らしくないから好きだよ」

と、褒めているのか貶しているのかわからないことを言われて苦笑いしたこともある。

とはいえ、お付き合いを通して本来の自分が好意的に受け止められたことは間違いない。

親ですら否定した「本来の私」を肯定してくれた海外の友人達

日本では、演技なしの本来の自分を心から肯定的に受け入れてもらったことなど一度もなかった。

親ですらそれを恥だとして「矯正」しようと躍起になった。

それが私を思ってのことだとは重々わかっており、自分のこの性質に問題があるのだと思って自分を偽ってきた。

しかし、海外で出会った友人達はそれが演技だとすぐに見抜き、本来の私の方がよっぽどいいと言ってくれたのだ

その時自分の存在が本当に受け入れられたことを初めて実感することができた。

たったそれだけのことが度重なる演技でアイデンティティの崩壊寸前だった私を崖っぷちから救ったと言っても過言ではない。

人は本来の自分を受け入れてくれる存在を求めている

人は誰もが本来の自分を受け入れてくれる存在を求めている。自らが属する社会で異質な存在として扱われる人ほどその渇望は大きい。

私もその一人であり、自分が属する社会の中で本来の自分を受け入れてくれる場所を見つけられずにいた。

しかし私は、その場所を海を越えた別の国で見つけることができ、それまで砂漠のように乾いていた心が豊かな水で潤うのを感じた。

まさにそれは私にとって起死回生の水が湧き出るオアシスであった。私はそのオアシスで自分の中の心の渇きを潤し、なおかつその潤いを維持する力を得られたのだ。

以来、「自分はこの社会で存在価値がある人間だ」と思えるようになり、それが今の私に生きる力を与え続けている。

日本で生きづらさを感じている人は一度日本を出てみてほしい

私のような「グレーゾーン」の存在は決して珍しいものではないが、日本では異質な存在であることは間違いないだろう

また、私とは違うタイプで「異質な存在」とみなされている人もおり、この日本では非常に生きづらいと感じている人も多いのではないだろうか。

そのような人は、一度日本と全く違う価値観を持つ海外に出ることをお勧めしたい。

世界は広い。必ずどこかに本来の自分を受け入れてくれる人がいるに違いない。

若い人ほど海外に馴染みやすく、新たな出会いも多いはず。海外にいくチャンスがあればぜひ前向きに検討してほしいものだ。

もちろん、常に緊張感を持って自分で自分を守れる強さは必要不可欠だが。

追記「普通」の人や心がタフな人へ

自分が「普通」だと認識している人にくれぐれも誤解しないでほしいことがある。

多くのグレーゾーンは、生きづらさを感じていてもそのことを勲章であるとも免罪符になるとも思っていない。

おそらく私のように世間と折り合いをつけるために必死に努力し、本来の自分と全く違う人物を演じている人が多いと思う。

そのような人が生きづらさを口にすることが悪だと断じる風潮は見苦しいと感じている。

私は幸運にも受け入れてくれる存在に出会えて救われたが、出会えないまま苦しんでいる人だっている。

また、人それぞれ心の強さには違いがあり、自分は乗り越えられた苦難を乗り越える力を持たぬ人もたくさんいる。

そのような人を弱い人だと切り捨てる社会であって欲しくない。これは私自身も犯しがちな行為なので注意せねばと思っている。

その行為は、なんらかの困難を抱えた時に自分が受ける仕打ちだと考える程度の想像力を持ってほしいものだ。

そのような願いを胸にこのエントリーを締めたい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?