神の声に導かれるということ。
ちょっと面白い夢を見ていた。
「#ミンキーモモ」の新しいテレビシリーズを今つきあっている女性と観ている。
作画はじつに素晴らしいけど、内容は全くつまらない。
私は彼女に、
「昔は #首藤鋼志 さんという脚本家書いててシビアなストーリーが多かったんだよ。でも今はこういうふうに描かないと苦情が出るんだってさ」
まず思い浮かんだのは、現在の心理臨床の世界が「漂白」されてようとばかりしているのではないかという私の思いの反映ではないかということ。
あとは、彼女とエンプティ・チェアしてみるとか、番組中のモモになってみるとかやったけど、その結果はヒミツ。
今や「#うる星やつら」新テレビシリーズ(第1話は原作に忠実という形で始まった。そのあとは観ていない)ですら苦情が出たそうですね。深夜アニメでもあるのに。
「うる星やつら」がブームになり出した頃、#高橋留美子 先生相手の鼎談で、漫画評論家が、
「あなたの作品は男への怨念が籠っている気がしますが、何かそういうご経験がおありですか?」
という、今では不可能だろう質問をしていた。
先生の返事は覚えていない。
そうそう、その対談では、「#めぞん一刻」のことも取りあげていて、
評論家:「なぜ五代君が風俗で初体験してしまうストーリーにしたのですか?」
先生:「実は北海道で知り合った女性と体験させることも考えていたのですがやめました。でも、一度は体験させておいた方がいいかと」
評論家:「だめです。男は一回体験すると女性に対する見方が全然変わってしまいますから」
このあと、当時の「#スピリッツ」について連投しようと思ったら、「指が思いもよらないキーはじいて消す」という、フロイト的な「失策行為」、無意識にやらかしたので、ふれないままでいろという神様のお達しなのでしょう。
ただ、「#東京ラブストーリー」の男女の機微はぴんと来なかったです。
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定期ポストすれば、東京幼女連続殺人事件でMが逮捕された直後の新聞報道は、実にひどいものだった。
彼のオタク部屋の写真がデカデカと掲載された(しかもそれは映りがいいように、取材陣が並べなおした後であることがのちに判明)。
私は読んで2時間後には朝日新聞の「声」欄に投書。
「私は #臨床心理士 で #アニメ ファンだが、これを機に #おたく 差別が生じることを危惧する」
数日後掲載されだが、母親は、私の身に危険が降りかかることすら危惧した。
ところが、当時のおたくたちは、
「自分はMとはいかに違うか」
という弁明にばかり走った。
私はそれにも自己防衛ではないかという違和感を感じた。
「『自分の中のM』と直面したらどうか」
と #アニメージュ と #OUT に実名で投稿して、やりとりしたように思うが、内容は忘れた。
でもそういう縁もあって、「アニメージュ」編集部なるものに2回ほど実際に出向くことが許された。
編集長(初代の #尾形英夫 氏)とは対話しなかったが、黙々と判で決済するその姿は、ひどく恐ろしく見えた。
もう年寄りの回想に過ぎないのはわかってはいるが、#バブル期 の日本の若者の雑ばくとした空気は、それはそれで清濁併せのむエネルギーに満ちていて、それを体験した者は、かけがえのない財産をもっている「はず」だ。
ところが、ほぼ私と同年齢の今の政治のトップ共は、あんなつまらない人たちばかり。
リアルワールドの指導者たちには、責任をとる「大人」がほとんどいない日本になってしまったとはつくづく思う。
「責任を取る」とは、謝罪とか辞めるとかではなくて、日本人のために「公僕」(今はなかなか使われない言葉になったが)として奉仕する務めを果たすというようなことだが、今はもうどうしようもない状態。
今は士・師としての資格すら持たず、臨床現場すら持たず、心理でない職務をしている私だが、私なりに、#村瀬孝雄・#村瀬嘉代子 夫妻の「息子」として、何か「責任」を果たせないかと勝手に使命感に燃えて、たどりついたのが、ネット上では、こういうトリックスターに徹してみるということだ。
私が今入信を考えている教会は、典型的な #ルター 派なのだが、私の宗教についての書物上の師である #カール・ヒルティ は、自らを #カルヴァン 派に近いと書いている。
カルヴァン派については、#ウェーバー の「#プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」しか本格的な著作は読んでいない私だが、カルヴァン派が勤勉道徳であるにもかかわらず「#救済予定説」であり、どういう「徳」を積もうが、誰が救済されるかは最初から決まっているという考えであり、その矛盾を解き明かそうとしたのが「プロ倫」なわけだ。
これに対して、ルターも「信仰によってのみ義とされる」という考え方であり、これまた現世でどんな良いことを積み上げるかどうかと救済は関係ないという立場のようである。
こういう点では、「善人なおもて往生す、まして悪人においてをや」の #親鸞 もちょっと似たところがある気がする。
ルターは、神父や牧師の言うことではなく、聖書を各自が読んで考えろ、的な面があったと思う。
こういうのは私の今感じていることと通じるものがある。
聖書の言葉がことあるごとに脳裏に浮かんで自分の指標となるというのはなるほどと思う。
しかし、私は自分の日々の行いを神が直接コントロールしていて、何やら自分が思ってもいない方向へと誘導しており、その結果結局は自分が浄化され、果たすべき使命へと誘われており、その道を踏み外さないためには、絶えず、#フォーカシング で言う「#フェルトセンス」を通しての、言葉にならない違和感と、これをやれという導きに、神の声として従うことにしている。
それは後から振り返ってみれば、明らかに非道徳的な、人に非難されかれず、躁的な放縦とすら見えるものすら含まれるのだが、そればらせん状に、漏斗の中に吸い込まれるように収束して来ていると思う。
ヒルティも書いているが、
「神の声を聴くには、鋭い耳を持ち、決して聞き漏らしてはならない。それに従うことは、山々を尾根伝いに歩いていくようなもので、どちらに滑り落ちても真っ逆さまに転落するような、細い道である」。
・・・というあたりで連想されてきたのは、#ビートルズ のこの曲です。
当然、「君」を「神」と理解する。
君の扉へと続く、長く曲がりくねった道
それは決して消える事は無い
過去に訪れた道、僕をいつもここ、
君の扉へと導いてくれる
風の強い夜が、雨に洗い流され
一日中泣きはらして、涙の水たまりを残していった
僕がここで立ち尽くすのはどうして? 行き先を教えてよ
僕は何度も一人きりになって、何度も泣いた
僕が重ねてきた努力、君にはきっとわからない
そして長く曲がりくねった道が目の前にのびている
ずっと昔、君は僕をここに置き去りにした
僕をもう待たせないで、君の扉へ導いてよ
だけど長く曲がりくねった道が、僕の目の前にのびている
ずっと昔、君は僕をここに置き去りにした
僕をもう待たせないで、君の扉へ導いて
さぁ、さぁ、さぁ
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