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【天下無双の力士】雷電爲右エ門の生涯

みなさんは、江戸時代に活躍し、空前の相撲ブームを巻き起こした最強の力士、雷電爲右エ門をご存知でしょうか?

雷電は、21年の現役生活で27場所も大関に君臨し、黒星はわずか10、勝率は9割6分2厘(96.2%)という異次元の強さを誇りました。

この勝率は、大相撲史上歴代1位となっています。

今回は、“史上最強”と称される天下無双の力士、雷電爲右エ門の生涯を解説します。

雷電爲右エ門

【生い立ち】

雷電は1767年、現在の長野県東御市に生まれました。

ある日、母の「けん」が庭で据風呂に入っていたところ、急に激しい雨が降ってきました。

それを見た幼少の雷電は、母を風呂桶ごとかかえて家に運び込んだという逸話が残っています。

雷電は15歳前後で身長が180cmを超えていたと言われています。

とんでもない怪力だった雷電は、千曲川の対岸にある村の庄屋で相撲の技を磨きます。

そんななか、地方巡業で村に来ていた浦風に力士としての将来を見込まれ、17歳で江戸相撲に入ることとなりました。

1790年、雷電は江戸相撲における初土俵を踏みました。

10日間の興行で8勝を挙げ、いきなり優勝相当の成績を上げた雷電は、その後も次々好成績を記録していきます。

【黄金時代】

1795年、大相撲屈指の強豪である第4代横綱(事実上の初代横綱)の谷風梶之助が当時江戸で流行っていたインフルエンザにより、現役のまま亡くなりました。

谷風梶之助

この年の3月場所で雷電は大関に昇進しましたが、インフルエンザの影響によりこの3月場所は5日目で打ち切られました。

1797年の3月場所で雷電は市野上浅右エ門に敗れます。

4年前にも敗れており、この市野上浅右エ門は雷電が唯一2敗した対戦相手となっています。

またこの年、大相撲の歴史上で特に最強の10人とされる古今十傑の一人で、谷風とライバル関係にあった第5代横綱(事実上の第2代横綱)・小野川喜三郎が引退しました。

谷風梶之助と小野川喜三郎(画:勝川春章/メトロポリタン美術館蔵)

これにより、この時代の3強とされる雷電、谷風、小野川のうち、現役は雷電のみとなりました。

小野川喜三郎(左)

ちなみに、古今十傑には雷電も選ばれています(雷電以外は全員横綱)。

谷風、小野川が去り、一強となった雷電は、1799年11月までの間に11場所連続優勝相当という空前絶後の記録を打ち立てました。

【引退と死】

雷電は、身長197cm、体重170kgという巨漢を武器にその後も44連勝や38連勝などの記録を出し続けますが、晩年には星を落とすことも増えてきました。

そして、格下に黒星を喫するようにもなり、折からの腰痛もあって1811年に現役を引退しました。

雷電は21年の現役生活で254勝10敗(うち44連勝を記録)、勝率は驚異の9割6分2厘(この勝率は歴代1位)、全35場所のうち大関在位は27場所、優勝相当25回(うち7回が全勝)という異次元の成績を残しました。

ちなみに、歴代1位となる通算1187勝を記録し、歴代1位の横綱連勝記録(63連勝)を保持する第69代横綱・白鵬翔の勝率は8割2分8厘です。

雷電は大酒飲みだったとされ、ある日の長崎巡業で、酒豪として名高い中国の学者(陳景山)と飲酒対決することとなりました。

その際、雷電は18リットルというとてつもない量の酒を飲み、相手をダウンさせます。

しかし、なんとその後にもう18リットルを飲み干し、そのまま下駄を履いて宿へ帰っていったといわれています。

ちなみに、現在提唱されている「節度ある適度な飲酒量」は、1日平均純アルコールで約20gといわれており、1日で36リットルのお酒を飲み干した雷電は常軌を逸した怪物です。

1825年、雷電は59歳でこの世を去りました。

死因はインフルエンザなど諸説ありますが、明確に定まっていません。

【なぜ横綱になれなかったのか】

驚異的な強さを誇った雷電ですが、横綱ではなく大関のまま現役生活を終えました。

そこで、なぜ雷電は横綱になれなかったのかという疑問が出てきます。

当時の相撲は各藩でそれぞれ力士を抱えており、最高位は大関でした。

「横綱」は、将軍の上覧相撲のために特に強い大関に与えられる名誉称号で、儀礼的な側面が強くありました。

雷電は、当時の最高位である大関に27場所も在位した驚異の力士です。

そんな強い雷電がなぜ横綱になれなかったのかは、「土俵上で相手を殺してしまったことがあるから」「本人が辞退したから」「当時は今ほど横綱という地位に重きが置かれておらず雷電自身が横綱を求めなかったから」など諸説あります。

ただ、ある人物が雷電に直接「なぜ横綱を張らないのか?」と聞いたとき、雷電が「わしは横綱なぞは少しもほしくはごんせん」と笑いながら答えたという逸話が残っています。

当時の「横綱」は、現在とは内容も意味も大きく違ったため、雷電自身が横綱に執着していたわけではなかったことが推測されます。

富岡八幡宮の境内に立つ横綱力士碑には、歴代の横綱とともに大関として唯一雷電も顕彰されています。

横綱力士碑(© 三甲家玄兵 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Yokoduna-tomiokahachiman.JPG)

雷電が相撲の歴史のなかでも傑出した存在であったことが窺えます。

ちなみに、富岡八幡宮は現在の大相撲の前身である江戸勧進相撲が初めて行われた神社で、大相撲発祥の神社とされています。

以上、江戸時代に空前の相撲ブームを巻き起こし、今もなお“史上最強”と謳われる無双力士、雷電爲右エ門の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇


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