見出し画像

雑賀という名字

 


和歌山城を訪ねた時、2階の展示場の隅っこに「雑賀鉢」を見つけました。

その鉢をひっくり返したような形から、雑賀衆の兜の事を総称して「雑賀鉢」というのです。

それは名だたる戦国武将にような華美な装飾は一切なく、家紋を主張するわけでもなく、ごくシンプルな実用的な兜でした。

正直、ちょっと物足りなぐらい、武骨で愛想の欠片もないデザインに、いかにも雑賀衆らしさを感じてしまいました。

和歌山城に関しては後日、記事にしますが、
今回は、「雑賀衆」とはいったいどのようなものだったのかをまとめてみました。



初めて遭遇した雑賀さいかさん


長男が高2の時、保護者同伴の懇談のための、日時予定となる懇談時間割表を見た時、雑賀さいかという名字を発見して、思わず固まってしまった事があります。

私:「ちょっと!これサイカって読むんやろ?田舎は和歌山ちゃうん?」
長男:「知らん。」
私:「今度聞いてみてー。たぶんそうやで。」
長男:「サイカと喋ったことないねん。いっつも寝てるし。野球部やわ。」
私:「雑賀衆の末裔やできっと!」
長男:「なんやそれ…」


長男とはかなりの温度差がある会話ですが、私は「雑賀」という名字を発見した事が、なんだかうれしくなって、思わず興奮してしまったのです。

雑賀さんの名の存在は、当時読んでいた司馬遼太郎のエッセイで知ったのですが、最強鉄砲集団・雑賀衆さいかしゅうの名がそのまま名字として残っていることに驚いたのです。


司馬さんも小学校の頃、同じクラスに雑賀という性の子がいたり、そして、作家になってから、雑賀さんという老人が訪ねてきたり、生涯で二度、雑賀さんに遭遇しておられます。

やはり、どちらも和歌山県出身で、雑賀衆の末裔であるだろうと書かれていたので、私も雑賀衆の末裔に出会ってみたいものだと思っていたのです。

それが長男と同じクラスに雑賀くんがいたのですから、当然、興奮するわけです。




雑賀衆を生んだ和歌山

和歌山県和歌山市西浜付近(旧:雑賀)から発祥。奈良時代に記録のある地名。地名はサイカで姓の古い発音もサイカ。
全国順位は2,350 位
人口は約6000人

日本姓氏語源辞典

戦国時代、最強の鉄砲傭兵集団となり、紀伊半島の南西部、現在の和歌山市雑賀崎あたり居住し、同じ和歌山の鉄砲傭兵軍である「根来衆」は僧兵だったのに対して、「雑賀衆」は国人・土豪・地侍たちで構成された集団でした。

1543年の鉄砲伝来のあと、「根来衆」の僧が持ち帰り、それが「雑賀衆」に持ち込まれたようで、その後、どのような方法で材料を仕入れて生産したかは不明なのです。


司馬さんは紀州は面白いと言います。

第一には、古来、骨太い人たちを生んできた。
第二には、物の創意工夫のさかんな土地だということである。
たとえば、日本の魚釣りの技法のほとんどは紀州で生まれたし、
また私ども日本人の味覚の基礎になっている
醤油と鰹節は紀州人が生んだものであった。
第三に、紀州方言には敬語がない。

司馬遼太郎歴史の中の邂逅〈1〉

第一は「雑賀衆」や「根来衆」の事を指し、
第二は「湯浅」の醤油などがうかびます。

第三の敬語がないのには思い当たることがあります。

確かに、和歌山弁は大阪人が聞くとキツく聞こえます。
「人」を「物」扱いした表現をするのです。

たとえば、「お母さんはいらっしゃいますか?」と言うのに、
大阪弁では、「お母さんはいてはる?」となりますが、
和歌山弁では、「お母さんはあるか?」となります。

これは、私の主人の里が和歌山県の御坊なので、帰省するたびに、耳にしています。

だからと言って、決して不愉快でもなく、むしろ、そのストレートな話し方に好感が持てるぐらいなのです。


この地で敬語がない理由として、「雑賀衆」には大名は存在せず、全ての行政は地侍たちの合議により決められ、いざ戦となれば仲間の中の有能な者の命に従いました。

それは特定の者に支配されず、
特に重んじられる門閥もなく、
一人だけが抜きん出る事もなく、
ただ平等意識のみがありました。

だから、日常生活に敬語自体が不要だったのです。



時の権力者にも屈しない


戦国時代、大名に支配されることのなかった雑賀衆は、誰の配下にも属することなく、いざ戦となればその時だけ雇われて戦に参加し、生計を立てていました。

石山合戦では本願寺側につく

あのカリスマ天下人の織田信長を11年も苦しめた石山合戦では、鈴木孫一土橋守重を中心に本願寺側で参戦しました。

雑賀衆が一向宗を信仰していたから本願寺に味方したとかではなく、ただ単に仕事として参加していたようです。

その結果、織田信長を本気で怒らせ、10万もの大軍で攻められて、敗北を喫しました。


不都合な太閤検地

信長が横死した後、次に天下人となった豊臣秀吉による太閤検地は雑賀衆にとって受け入れがたい政策でした。

正確な領地を計測して、石高を割り出し、それに見合った年貢(税金)を治めるなど、それまで一度も領主を持たず、平等な仲間だけの統治で成り立つ雑賀衆にとっては、従えない政策でした。

逆に豊臣政権にとっては、政策の基本であり、雑賀衆の地域だけが独自なルールで運営することを認めることはできません。

結局、雑賀衆は秀吉からも10万の大軍で攻められて敗北し、滅亡へと追い込まれてしまいました。



家紋から見る雑賀のルーツとは?


苗字というのは、先祖の出身地に由来することが多いのですが、
さらに家紋を調べてみるとそのルーツが見えてきます。

 記紀神話によれば、神武天皇の東征の折、三本足の八咫烏(やたがらす)が熊野から大和への道案内をしたという。そのためカラスは、熊野三山では太陽神を意味する神聖な存在として大切にされた。
(中略)
紀伊国熊野地方の豪族、熊野三党の榎本氏、宇井氏、穂積(鈴木)氏や雑賀(さいが)氏などが用いた家紋で、和歌山県を中心に大阪府、三重県に多い。

出典:知れば知るほど奥深い!

からす紋は紀州雑賀の鈴木一族の家紋として定着しており、熊野大社直系を意味し、元々は神事と関係が深く、雑賀氏は熊野神社の神官として土地内で勢力を持っていたようなのです。

足が3本あるだけにサッカーの神様としても有名で、サッカー部だった次男のために、友達が熊野大社のお守りをお土産にくれた事もありました。



ちなみにその雑賀くん、詳しい位置までわからなかったのですが和歌山に親戚がいたらしい。

身体は骨太のがっちり系で、握力は学年一なのだそうです。

やはり、鉄砲の取り扱いが巧みだった先祖からの遺伝子のせいかな…
今度は口に出さずに心の中だけで思いました。





先週いただいたお祝いボードです。
いつもありがとうございます。








サポートいただけましたら、歴史探訪並びに本の執筆のための取材費に役立てたいと思います。 どうぞご協力よろしくお願いします。