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時の権力者を苦しめ続けた宗教集団

(トップ画像出典:アゴラ


「一揆」は誰も得しない

日本史を紐解くと一向一揆いっこういっきという事件をしばしば目にします。

一向一揆とは、一向宗による権力への対抗運動です。
さらに、
一向宗とは浄土真宗
の事です。

当時、浄土宗から派生した浄土真宗でしたが、浄土宗信徒が、「浄土真宗」と名乗る事を嫌い、「一向宗」と呼ばれていたそうです。
その意味は、「ひたすら一つの事に専念する宗教」という意味。(諸説あり)

Wikipedia

阿弥陀様に心を帰依するだけで極楽浄土へ行けるという、お手軽な浄土真宗は、爆発的な勢いで信徒を増やします。

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信仰心に篤い者は命知らずで、驚くほどの強さを持ちます。
信徒はすなわち、その土地に住む身分を問わない領民であるため、
これを抑えようと討ち取ると、領主にとって自国の領民が減る事に繋がり、決して得策ではありません。

かといって鎮圧しないと、こちらが討たれる。

領主にとっては、どちらに転んでも得にはならない事です。

でも一向宗の人間にとっては、自分の生活を死守するための戦いですから、元々から損得勘定などはないのです。

これらの一揆は、領地や金銀を欲する領主である武士から見ると、解決策のない非常に厄介な事でした。



それぞれの一向一揆への対処

そのような一向一揆に対して、戦国武将はどう対処したのか、全部を記述すると、膨大な文字数になってしまうので、メモ代わりに三英傑だけを例に挙げてみました。


徳川家康の場合

まだ家康が松平姓を名乗っていた頃、永禄6年(1563)に起こった三河一向一揆は、後の対・武田信玄の三方ヶ原の戦いと本能寺変直後の帰還時の伊賀越えと並び、家康の三大危機に相当するほどの事でした。

この結果次第では、その後の歴史は大きく変わっていたというぐらいの事です。

これより3年前の桶狭間の戦いにおいて今川義元が敗れた事は、当家の人質だった家康にとって大きなチャンスでした。
本拠地の岡崎ではりきって領国経営の強化を図り、年貢や軍役の徴収を強めた事で、国侍や百姓らの不満が増大します。

「地盤を固めるからサッサと協力しろよ!」という家康の強引政策に周りがついていけてないのが発端でした。


なんと、家臣の酒井忠尚も反発します。

その当時、上宮寺じょうぐうじ勝鬘寺まんしょうじ本證寺ほんしょうじ三河一向宗三ヶ寺と言われ、そのうちのひとつ上宮寺じょうぐうじに対して、強制的に兵糧を取り立てた事で、門徒らが一斉に蜂起したのです。

家康との対立は深まり、範囲は一向宗門徒全体に及び、最終的には本證寺ほんしょうじ・10代空誓くうせい(親鸞のひ孫) VS 松平家康の大きな争いに発展しました。

家臣も酒井だけにとどまらず、
江戸幕創業時の重臣・本多正信、
徳川十六神将の渡辺守綱わたなべもりつな蜂谷貞次はちやさだつぐなど、
約半数の家臣が一向宗側につき、これは単なる一揆ではなく、松平家の内部分裂をも併発してしまいました。

忠臣で有名な三河武士である家臣たちもこうなるのか??
と、世間を驚かせたものでした。
結果的には和議に持ち込んで平定したものの、家康にとって宗教というものの恐ろしさを身をもって知った出来事でした。



織田信長の場合

周知の通り、現在の大阪城は、以前は一向宗信徒の「石山本願寺」がありました。

一向宗11代の顕如けんにょが門主の時代、
紀州の鉄砲集団・雑賀さいかしゅうと、浅井、朝倉、武田、上杉、毛利という当時の大名オールスターズが信長包囲網を画策し、それに連動して各地の門徒による長島一向一揆や越前一向一揆を含む日本史上最大の一揆が起こりました。

これらを総称して石山合戦といい、元亀元年(1570)に始まり、決着するまで10年間以上も要したのです。
戦に関して信長は、徹底して叩きのめす「KO勝ち」が常套なのですが、これに関しては珍しく最後は講和という「判定勝ち」だったのを見ても、どれだけ難儀な相手だったかがわかります。


ではなぜ、信長はこんなにも難儀な集団を相手にしなければならなかったのか?


それは、本願寺の建つ土地がどうしても欲しかったからです。

今の大阪城の立地をみてもわかるように、
大阪の上町台地の北端にあり、その高低差と淀川や大和川が天然の要害となって、守りに固い土地です。

また国際貿易都市の堺の河口にあたる上、瀬戸内海へと続く大阪湾に面にしていて、国内流通だけでなく海外へも視野を広げる事ができる絶好の立地にありました。

出典:新経世済民

信長はかねの威力を誰よりも熟知していて、天下統一のためには何よりも経済の発展を重視していました。
京都の朝廷を監視し、軍事、経済、政治を展開してゆくのに、これほど適した地はありません。

だから、どんなに苦労してもこの地が欲しくて欲しくてたまらなかったのです。

「俺様が使うから、そこを退け!」という信長の所有欲が発端でした。


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この石山合戦の時期に、さらに信長を苦しめるサイドストーリーがありましたが、それはまた後日、記事にします。


豊臣秀吉の場合

秀吉は、三河一向一揆も知っているし、石山合戦に至っては信長の配下にいて、嫌というほどその恐ろしさを体験していました。

むしろ懲りていました。

天下統一をほぼ果たした秀吉は、信長の意思を痛いほど理解し、石山本願寺を天満に移転させ、本願寺跡に堅固な大坂城を築きます。

やがて関白になると、寺社に対する支配権を得、本願寺も完全に支配下に置きます。
秀吉の気まぐれなのか?何度か移転させ、最終的には京都へ移り、本願寺は完成されます。

この時の秀吉の意図は、京都の防衛にあり、散在する寺院を一か所に集め、聚楽第内裏を守るために町造りを進めています。

大坂から見て京都の入口である七条堀川本願寺を置いたのは、砦としての役割だったようなのです。

秀吉のする事はいちいち裏があり、必ず意味があります。


やがて、信長と互角に戦った宗主・顕如が没した時に、時代を変える決定的な事がありました。

その跡継ぎを長男・教如きょうにょか三男・准如じゅんにょで、大いに揉めました。
(詳細はここでは割愛します)

その時に本願寺の方から仲裁を求めたのは、時の権力者である秀吉でした。

これは何を意味するかというと、
関白とはいえ、秀吉は世俗の者です。
聖域である宗主の決定権を自ら、世俗の者に委ねる行為は、その支配下であると公言した事に等しく、
それまで維持し続けた宗教の自立・自尊の聖域性を自ら放棄したことになりました。


秀吉は准如じゅんにょを宗主として天正19年(1591)本願寺を京都へ移しただけで、その11年後に徳川家康が教如きょうにょを宗主として慶長7年(1602)東本願寺を建立させました。


また、秀吉は天皇の意向を受け、私戦禁止令を出します。
所領獲得などの個人的な武力による紛争を禁止し、
その裁定は関白の秀吉に委ねる事としたのです。

「勝手に戦をするな!その前に俺様が仲裁する」という訳です。

これを全国の領主や大名に認めさせ、領土や地位を安堵することで、武力征服ではない平和統一を実現させました。
これが惣無事令と呼ばれるものです。

何より、この政策は二度と一揆が起こらないための防止策でした。

先に述べたように、一揆では誰も得はしない。
そんな無益な戦に終止符は打たれたのです。

平和的に解決したものの、江戸時代を通して薩摩藩鹿児島人吉藩熊本では三百年にわたり、一向宗は禁教とされたそうです。


お手軽で親しみやすい浄土真宗ですが、一致団結してしまうと手が付けられない勢力になるという歴史を作りました。
大名の中には、その歴史を忘れず、宗教による団結力と捨て身の精神を恐れ続けたのです。


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