歴史に学べ!殿様たちの学力低下が明治維新を物語る
殿様の学力
問)以下を何と読むか。
一、酒井雅楽頭
二、井伊掃部頭
(答えはこの段落の下にあります。)
これは、徳川幕府が倒れたあと、明治元年(1868)に設けられた「沼津兵学校」への入試問題のひとつで、受験者は旧幕府直参の旗本の子息たちです。
彼らの回答は、目を疑うものでした
一、「さかいがらくあたま」または「さかいがらくのあたま」
二、「いいはらべあたま」または「いいはらいのかみ」
もちろん、大間違いです。
いや、現代人が読めないのは仕方のない事ですが、ほんの少し前まで旗本の「殿様」といわれた人々は読めないとおかしい。
というのも幕政時代の国家機関の役職名なのですから。
今でいうと、政界の大臣が国の省名や庁名がわからないのに等しく、上記の珍答は、それがわからないだけでなく、その漢字の読み方も知らないというダブルバカの回答なのです。
その他の常識問題もさっぱり解らない者が多く、
当時の秀才達を集めた試験官たちは、呆れるのを通り越して、大笑いし、
「だから、諸君は薩摩のイモザムライに負けたのだ。」と言ったという。
徳川幕府は何だったのか?
この事だけでも、明治維新は起こるべくして起こったものだと確信しまいます。
たとえば、旧幕時代に最も教育制度が発達していたのは、肥前藩(佐賀県)で、所定の学業ができないと、家禄を8割も召し上げられました。
それに対して幕府は、旗本の家に生まれただけで、一冊の本も読めなくても殿様の地位は安堵されたのです。
この差は大きく、幕府の体制そのものに無理があったといえます。
徳川三百年の平和が学力低下に繋がった思うと、現代も、学力低下が問題になっているが、やはり平和過ぎる時代が続くとこうなるのか…
戦後、努力を重ねて急成長を遂げて経済大国となった日本でしたが、いつしかその地位に胡坐をかいて、とうとう日本人は、幕末の「殿様」のように、急成長の中国や韓国に追い越されたのもなんだか理解できてしまうのです。
各藩には様々な立場と思想があった
幕末はペリーの黒船来航以来、日本人たちは天地がひっくり返るほどの刺激を受け、実に様々な意見や思想が生まれました。
諸藩の思想も様々で、日本各地で衝突や弾圧などを含めた大混乱を招きます。
それまで、徳川幕政下で平和に暮らしてきた日本人が、初めて世界の中の日本国を意識し、同時に危機感を抱くことになったのです。
倒幕から明治維新へと繋がった、幕末を知るにはなかなか複雑です。
基本中の基本である初級ランクの背景を整理してみました。
外様と譜代
譜代大名ー関ヶ原の戦いの前から徳川家の家臣であった大名。幕府の要職を独占。
外様大名ー関ヶ原の戦いの後に徳川家に臣従した大名。
冒頭で述べた酒井雅樂頭も井伊掃部頭も元から徳川の家臣なので、譜代大名となるのです。
幕末思想の種類
◇尊王攘夷 派
尊王とは天皇を尊ぶこと、攘夷とは外国を追い払うということ。
天皇を中心に諸外国を武力で追い払う思想。
◇公武合体 派
諸外国からの圧力に対抗できるよう、朝廷と幕府がお互いに協力し合う思想。
◇開国 派
攘夷など不可能だと悟り、諸国と対等な国力を得るために、開国する思想。
◇討幕 派
幕政に限界を感じて、幕府を消滅させようという思想。
◇佐幕 派
徳川幕府の補佐をして幕政を続けるという思想。
大きな役割を果たした薩長土肥
上記の事を念頭に、倒幕が実現した雄藩たちの動きを見てみましょう。
いわゆる積極的な動きを見せた雄藩とは薩長土肥といわれる薩摩藩(鹿児島県)、長州藩(山口県)、土佐藩(高知県)、肥前藩(佐賀県)の事です。
その雄藩たちは全て日本全体の西方にあり、外様大名です。
元は大藩だったにもかかわらず「関ヶ原の戦い」の敗戦以降、徳川統治の間は端に追いやられていました。
それら雄藩たちは、幕政下においても全面的に徳川に屈していたわけではなかったのです。
常にアンテナを巡らせて、来るべき日に備えていたのです。
幕府に対しての信頼が消滅した時、彼らは動きました。
◆薩摩藩
藩主:島津久光
当初は久光の主導で公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するも、やがて藩主を置き去りにして、西郷隆盛や大久保利通らが倒幕派に転じ、長州藩との薩長同盟を結び、明治維新の原動力となります。
その新政府では中枢的な存在となる。
ころころ変わる幕末の時世の中で、佐幕派になったり、尊皇派になったり、最後は長州藩と組んで討幕派に急旋回し、非常に立ち回りは上手い。
外様大名の中では唯一、2人の将軍御台所を出しているのを見ても、かなり外交手腕には長けている。
・11代徳川家斉の正室の広大院茂姫
・13代徳川家定の正室の天璋院篤姫
主な有名人:西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、大山巌
◆長州藩
藩主:毛利敬親
何事も家臣の提案を「そうせい。」と肯定していた事から”そうせい公”とあだ名されるほど、許容範囲は大きかった。
表向きは公武合体から尊皇攘夷となり倒幕派に転じていたが、
その実は開国派で、秘密裏に早くから有望な若い藩士を海外留学させていた。
一時期は朝廷からも幕府からも排斥され、不遇の時期はあったものの、
吉田松陰の私塾、松下村塾で学んだ藩士がさまざまな分野で活躍し、それが発端となって倒幕運動が広まる。
主な有名人:高杉晋作、木戸孝允、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文
◆土佐藩
藩主:山内豊重 (容堂)
「関ヶ原の戦い」を境にそれ以前の領主・長曾我部氏とそれ以後の領主・山内氏のそれぞれの家臣たちを区別し、大まかに上士と下士の身分制度があった。下士の中でも在郷武士である郷士と呼ばれる身分があり、坂本龍馬はこれに属す。
「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されるほど、思想は揺れた藩主・山内容堂だったが、結局は政権を朝廷に返すようにという大政奉還を決定付ける建白書を徳川幕府に上申する。
主な有名人:坂本龍馬、岩崎弥太郎、後藤象二郎、武市半平太
◆肥前藩
藩主:鍋島直正 (閑叟)
激動の幕末において、佐幕、尊王攘夷、公武合体などのいずれにも属することなく、均等に距離を置く。
そのため、周りからは真意が掴めず、「肥前の妖怪」と警戒されたため、発言力を持てず、政治力・軍事力ともに発揮できなかった。
しかし、その結果、藩内における犠牲者を出さずに済んだ。
どの思想かの公表はなかったものの、倹約に努めて独自に西洋の軍事技術の導入をはかる。
独自に最新知識を得て、科学技術を導入し、西洋式の大砲や鉄砲、蒸気船までも、自藩で製造を実現させる。
質素倹約と経営手腕を商人たちに「そろばん大名」と呼ばれた。
主な有名人:大隈重信、副島種臣、江藤新平
また維新は起きるのか?
このように、人材育成や藩政改革に取り組み、レベルの向上に努めた各藩と、何もしなかった幕閣との差が顕著になったのが幕末です。
幕府が胡坐をかき、その政策に粗が出始めて、その家臣だけでなく庶民たちからの不満が爆発して、明治維新がなったわけですが、
現代も危ないなと思ってしまうのです。
通信事務費、IT化、コロナ対策、給付金、など全てが後手になっている令和の政界では、ツッコミどころ満載過ぎて、これから先とてもじゃないけど信頼できない。
政治家たちの基本の考え方が世間の常識とはかけ離れ過ぎていて、たぶん庶民の気持ちがわからないどころか、話も通じないのではないかなぁ。
領収書を添付しての経費の透明化も、IT化も進まず、一般人が普通に出来ていることが出来ないのですから、意味が解らないのです。
ごく普通の事が出来ない人たちが、今の日本を動かしているのです。
今に維新のような革命が起きるのではないかと危惧しているというより、むしろ望んでいる私がいるのです。
歴史は繰り返しますから、今のままではいつか大逆転が起きそうだと、半ば心配、半ば期待しているのです。
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