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「長州征伐と村人たち」郷土史の中のウラ史実③~「あしたづ」第十号より

▼ヤクザより酷い徳川幕府のたかり・ゆすり・強要

現在の大阪府生野区巽中は中河内の西に位置し、明治初めまでは、稲葉氏が治める淀藩河内領(12万2千石)に属する河内国渋川郡大地村と呼ばれていました。

大地村のある旧家に遺されていた古文書は、村人たちから見た幕末当時の様子をありありと伝えています。

そこには、目を覆いたくなるほどの幕府政策の低レベルさが見えてきます。
それはもしかしたら、現在のヤクザや闇金の取り立てより、理不尽で勝手極まりないものだったのです。

▼他力本願だった2回の長州征伐

元治元年(1864)「禁門の変」は長州藩による京都御所への発砲により始まり、京都の大半は延焼してしまいます。

その3日後、朝廷より長州追討の勅命が出ます。
「長州藩の者たちをやっつけろ!」というわけです。

やっつけろ!と言われたからには、幕府は戦闘態勢を整えなければなりません。
そこでまず必要になるのは、「人」と「金」です。

幕府は、前尾張藩主・徳川慶勝よしかつを総督にし、関西の21藩の各村への出兵命令を出します。

大地村より、先発隊37名、後発隊9名、合わせて46名が出兵し、往復の日数で述べ286日分の労役を強いられる事になります。

しかも、その出兵の費用としての58両を、村役の頭の百姓4人が借金して負担させられました。現代の相場で換算するとその額は1160万円となります。

それだけではありません。
商人たちには現在の600憶円に相当する30万両という莫大な軍資金の請求までしているのです。
(※1両=20万円で計算しています)

長くて辛くて苦しい労役を強要された上、その軍資金まで自分で出させるという理不尽極まりない命令です。

今でいうなら、会社の存亡を賭けた長期出張なのに自己負担という、バカバカしすぎて、誰も従うはずもない話です。

一回目の長州征伐は、長州側が米欧4ヶ国の艦隊からの砲撃戦の直後だったため、戦う準備も整えられず、最初から恭順の姿勢だったため、幕府は戦わずして勝利します。

大地村の人たちも、それぞれ無事に帰村できて安堵したのもつかの間で、再び2回目の長州征伐の勅命が出ます。

またまたヤクザな幕府は、大阪、兵庫、西宮などの庶民に700万両というとんでもない軍資金を要求するのです。
もう額が大きすぎて換算する気も起こりません。

さすがに、それは無理だと庶民たちは言いますが、それでも幕府はなんと従わない者は土地の退去命令まで出すのです。

庶民たちはやっとの思いでそのうちの3分の2の軍資金を用意します。
大地村にもその石高に応じて約100両も請求されて、村人たちで負担しています。
さらに数か月後に追加金として52万両を強要します。

ここまで来たら、今のヤクザの方が道理をわきまえているし、闇金の取り立ての方がまだ理にかなっているのではないですかー??

100%他力本願なら、戦争なんかするな!と言ってやりたいです。

▼横暴行為の代償

第1次の征伐では恭順した長州でしたが、その実、高杉晋作ら討幕派で結成された奇兵隊が中心となって軍備を充実させ、クーデターを起こして藩の権利を奪う事態となっていました。

長州人たちも、幕府配下の”藩”に任してはおけず、庶民たちが立ち上がっていたのです。
そのため第2次幕長州征伐では、幕府の征討軍は各地でことごとく敗戦してしまう結果に終わり、これをきっかけに日本全国の諸藩に勇気を与える事になって、気運は一気に倒幕へと向かうのです。

自分たちの生活を守るために必死に自らの力で戦う庶民たちと、
もはや欠片かけらの威厳もなく、庶民に頼らないと成り立たない幕府とでは、その士気の差は歴然としていました。

この時点で、完全に人心は幕府から離れたのはもちろん、この出来事によって招いたのは、米価が高騰したための物価の上昇とあちこちで頻発した百姓一揆なのです。

この時、大阪で流行った数え唄があります。





よもや下へは行かれまい 浪速の辺りをうろうろと この卑怯もの
異性ばかりを高ぶって 心卑しい旗本の 此の喰いつぶし
むやみに町で宿借りて あれのこれのといじり喰い この乞食め
やたらに進発進発と やがて神罰当たるぞよ 此の末しらず





幕府はもう”権威”どころか、庶民から見たらただの"食い潰し"の”乞食”にまで成り下がっていたのです。

▼最初から経済破綻していた幕府体制

再三の御用金調達命令に難渋する大阪商人たちに、お上の威光を笠にさらに無理強いし、農民たちにも軍資金だけでなく、兵の宿舎として自宅や寺院を一方的に占領しました。

それは武士道など皆無の盗賊の所業と等しい姿がありました。

はなっから商人や農民という庶民たちをアテにした100%他力本願の戦争遂行で、自力では戦も出来ないという状態が、すでに負けだったのです。

そもそも徳川時代が始まった当初は、幕府は国土の4割弱の領地しか持てず、その税収のみで外交と防衛を取り仕切っていました。
それでも、掘れば掘るほど金が産出できた佐渡や伊豆の金山を押さえていたので、当初は余裕がありました。

しかし、それは3代将軍・家光の頃には早くも枯渇し、財政は次第に逼迫していきます。
4代将軍・家綱の時は600万両あった財産が、1657年、江戸に「明暦の大火」が起こり、復興に多額の費用がかかった事もあり、次の5代将軍・綱吉のときには、幕府の資産は100万両もありませんでした。

その後、8代・吉宗時代の「享保の改革」、11代・家斉時代の「寛政の改革」、12代・家慶時代の「天保の改革」と、なんとか財政難を回避しようと手段を講じても、ずっと貧乏幕府だったのです。

それでもなんとか、小判を金の割合を減らすなどして鋳造して、260年もの間維持してきたのです。

逆に言えば、よくもそれだけの年月を持たせたものだと思います。

せめて4代・家綱の時の「明暦の大火」が起きた時点で、何とかできなかったのか?
ここで、倒幕・維新に近い大変革をすべきだったのではなかったか。

この時に、誰もその行動を起こさなかったのは、初代・家康が敷いた身分制度で成り立った封建思想が定着してしまっていたからかもしれません。

それに、平和な時代には武士は不要なのです。
びた一文の利益を産まない武士という存在ほど不要なものはない。

結局、武士も内職をしたり、商人から借金までして体面を保っていた状態だったのですから、基本となる身分制度にそもそも無理があると、誰か気付く者はいなかったのか?

苦し紛れに必死で維持してきたにもかかわらず、幕府は最も醜い形で終える事になったのです。


「あしたづ」とは主に大阪府東部・河内の郷土誌です。


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