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他人の靴を履いてみなければ、世界は広がらない

イギリスのことわざに「他人の靴を履く」というのがある。

その意味を要約すると、他人の立場になって物事を捉えてみる事だ。
言い換えれば「共感」する事なのだが、共感にも主に2種類ある。
表面的な状況から感情が動く同情や共鳴(シンパシー)と、他者の内面を想像するもの(エンパシー)とがあり、それぞれの意味合いは違ってくる。

これら双方は視点も「外側から」と「内側から」からと大きな違いがあり、前者はあくまでも自分の持つ常識範囲内だけでの感情だが、後者は自分の常識外として多様性を考慮して他者の気持ちに寄り添う能力に近い。

私なりに整理すると、
・シンパシー(sympathy)
自分の常識内で捉えた共感。
他者と感情を共有。(外側視点)
・エンパシー(empathy)
自分の常識に捉われない共感。
他者は他者としての感情を想像。(内側視点)


つまり「他人の靴を履いてみる」は、後者の「エンパシー」を得ることであり、自分の意思で物事を掘り下げて見直すことで新たな世界を広げるという意味なのだろう。
ひいては自分自身の人生を豊かにしてくれる事だと私は解釈した。

良い人間関係を築く秘訣もここにあると思う。
しっかりと自分を持ちながらも、いかに他人の靴を履いてみるか、そして自分の靴を勧めてみるかで、お互いの見識を高められるのではないか。


あなたの靴を履かせてよ

人とのお付き合いの始まりは、まずはランチや飲み会が実現しやすいが、「めったにない事」「今だけ」「これっきり」ならそれでいいだろう。
もし、何度か会うならそれだけ●●●●だと、私の場合は長く続かない。

その原因は食事を共にしていると、どうしても会話が生まれるのだが、それが第三者の「うわさ話」だけだとうんざりしてしまうからだ。

🍀ランチや飲み会だけでは続かない

今年に入って、かつての次男のママ友からランチのお誘いがあった。
彼女はハッキリした性格でありながら気遣いができ、年下ということもあってか素直に私の言葉に耳を傾けてくれるので、お互いにある程度の信頼関係はできている。(少なくとも私はそう感じている)

「久しぶりやな~姉ちゃん全然変わってないから安心したわ。」
昔から私の事を苗字ではなく「姉ちゃん」と呼ぶ彼女の方こそ、まったく変わらない。
(ま、私はこれ以上変わり様がないんやけど)

彼女の長男が私の次男と同じ学年で、その下に4歳違いの弟がいるので、お互いに息子二人を持つ母だ。

会話の内容はもっぱら息子の近況話で、挙句の果てには息子の恋愛話にまで及んでしまったので、いつしか辟易してしまう私がいた。

息子の恋愛なんか興味ないわ💧

当然ながらどちらの息子たちも、とうに成人したりっぱな大人である。
「結婚」となれば話は別だが、彼らの恋愛など親が出る幕はないと思うし、詮索するのもタブーな事。
少なくとも私は、息子が誰と付き合っていようが興味はなく、いい大人なんだから、よろしくやっているだろうし、万が一将来の伴侶と認識したら必ず紹介してくれるだろう。

彼女はいったいいつまで息子の”介入すべきではない所”まで気にかけ続けるつもりだろうか?

🍀あなたは何者?自分はどこにある?

いつまでも母親としての目線でいる事を否定する気はまったくない。
現に親子は死ぬまで親子なんだから、その事実は変えることはできない。
しかし、話題が家族の事しかないのはいったいどうしたものだろう??

確かに家族は一番大切な存在なのは私も同じだが、子供たちは巣立っている以上、精神的にこれ以上は母として生きるつもりはない。
成人した子供のことをいつまでも詮索するのは、依存している事に等しく、子離れができていない事だと思う。

もしかすると彼女とのお付き合いは、これで終わるかもしれないと思いながら一か八か口に出して聞いてみた。

「ずっと子供らの話しか出ぇへんかったけど、自分の好きな事や興味ある事はないの?
これからはママ友ではなく、人間同士でお付き合いしたいなぁ」

お互いにママ友だったのはもう過去の事で子育てが終わった今こそが、本当の人間関係の始まりである。
母親としての看板はもう下ろして閉店するべきではないか。
こんなことを言ってしまうと、二度と会う機会はないかもしれないと思いながら言ったのだが、彼女の反応は意外なものだった。

「そんなこと言う人は初めてや。
姉ちゃんはやっぱり刺激を与えてくれるわ!」

刺激てなんや??

彼女の表現も面白いのだが、私は決して刺激を与えたかったわけではなく、ただ次回会った時も同じように母としての話題しかなかったら、きっと苦痛に感じてしまうことは明らかなので、これはただ防御線を引いたに過ぎない。

結局、彼女の興味ある事を聞き出し、今度は「美術館」へ行こうと言ってこの日は別れたのである。
いつ実現するかはわからないが、彼女の靴を履かせて●●●●●もらった上で、単なるシンパシーではないエンパシーを得ることができたなら、今後もずっと続く人間関係となるはずだ。

相手の靴を履いてみて、自分が何者かを知ることもあるだろう。
逆に私の靴を履いてもらって、別世界の景色を見せることができたなら、お互いにこれほど素晴らしい事はないのだから。

家族のための自分である事も大事だが、その前に自分のための自分であるべきだと思う。

そして共感できる「何か」があれば人間関係は自然と続いてゆくものだ。


狭い視野だと
他人の靴は履けない

🍀自慢話と愚痴話

人の話に共感して新たな価値観を見いだすことがある。
時には感情が揺さぶられ、映画や読書を体験したような感覚になることもあるので、基本的に人の話を聞くのは好きだ。

しかし、やはり自慢や愚痴は苦手だ。
リアクションに困ってしまうのが正直なところで、結局この両種の話は聞き手にとっては同じ部類であり、私が最も困るのが自慢話の中の「不幸自慢」の話だ。

いかに自分が可哀そうな人間かをアピールしてくるが、私にどんなリアクションを求めているのかわからなくなる。
同情してほしいのか。
解決策を求めているのか。
味方になってほしいのか。

姑や夫、あるいは親の愚痴を言って、自分の置かれている立場がさも不幸だと言いたげなのだが、それは裏を返せば幸せ自慢にも聞こえる

私は内心、よくもまぁ会うたびにこんなに愚痴話が出るものだと感心してしまい、心ここにあらずになってしまう。
私ならめんどくさくて、愚痴話をそんなに一から十まで起承転結で話せない。
こんな話こそ手短に明るくあっさり終わらせてほしいのだが、当人は会話のネタが他にないのか、あるいは愚痴話を話すために会いに来たのか、時にはこちらの話を遮ってでも、延々と話し続けるその時間は私にとっては拷問でしかない。

話を聞きながら、次回会う事は無いなと思ってしまうのは当然だろう。

自分を世の中で一番不幸だと思っている人に、何を言っても伝わらない。
こういう人にこそ他人の靴を履かせたいのだが、残念な事に”悲劇のヒロイン”役にとことん浸りたい気持ちが視野を狭くして、「履いてみよう」という発想すら湧かないものだ。

🍀「孤独」か「おひとり様時間」か

逆に人と繋がりたくないのなら、「孤独」に生きるのもアリだと思う。
自らの意思で「孤独」を望む人は、充実した人間関係を持っているからこその事で、それは「孤独」とは違う「おひとり様時間」と呼んで、私は「似て非なるもの」として捉えている。

ちなみに私も「おひとり様時間」は大好きだ。
完全に自分だけのペースで好きな事に没頭できるのは何ものにも代え難い至福の時間だと思っている。

今後、さらに年老いていくと、身体の自由も利かなくなって思うようにやりたいこともできなくなるだろう。
その時になって、ひたすら寂しい「孤独」を過ごすのか、至福の「おひとり様時間」を過ごすかは、今この時の人間関係によると思っている。
それは我慢してお付き合いする友人ではなく、家族以外の何かを共有・共感できるような人間関係をいかに築くかで、「ひとり」の時間がまったく違ってくるのではないか。

それはではなくの問題で、実際に私もこれ以上交友関係を広める気はなく、現在までに知り合った人たちの靴を履いてみたいし、私の靴も履いてみてほしいと願っている。

人同士のお付き合いは「縁」の一言で済む問題かもしれないが、その「縁」とは、自分の偏見を取り除きお互いの多様性を認めた上で、エンパシーレベルで共有・共感できる事なのだと、この”ことわざ”から気付かせてもらった。




【参考】
Precious.jp


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