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家康とSHINOBI
瀬名の救出劇に2週も使ってどうする!?
長生きした家康にはこれからいくつものヤマ場があるというのに、ここでこんなに時間を取って、密かに今後の時間配分の心配をするのは私だけでしょうか?
もはや私はツッコむ事が最大の楽しみになってきた今年の大河の展開です。
しかし瀬名の母・巴のセリフにが妙に心に残りました。
「瀬名、そなたが命を懸けるべき時は、いずれ必ず来ます。それまで、強く、もっともっと強く、生きるんです」
作戦1回目では大チョンボを犯した母・巴の最期のセリフは、今後降りかかる瀬名の過酷な運命へ向けての泣かせる伏線になりそうです。
もしかした回想シーンになって再び登場するかもしれません。
さて、今回の瀬名の救出大作戦、伊賀と甲賀の忍者たちの活躍で成功させたようですが、いったい家康と忍者たちの関係はどうだったのでしょうか?
今回は、それら「忍者」たちについて深掘りさせていただきます。
戦国武将と忍者の流派
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意外に古い忍者の歴史
日本で最初に忍者を配下に置いたのはあの「聖徳太子」と言われています。
その人物は大伴細人という甲賀者で、当時はまだ「忍者」ではなく「志能便」と呼ばれ、彼らを使って、朝廷内や豪族たちの動きを探っていたようなのです。
「忍術應義傳巻」などによると、推古天皇の摂政だった聖徳太子が、天皇から実権を奪おうとした有力豪族・物部守屋の動向を探らせていたのが、甲賀に住むこの細人とされています。
587年の出来事と伝わるので、推古天皇元年、飛鳥時代の初年度の出来事なので、実質存在したのはその前の「古墳時代」からということに驚きます。
ではこの細人が甲賀流の元祖かといえば、それも定かではなく、それ以前の可能性もあるので、その歴史はもっと深いことになります。
ずっと「志能便」と呼ばれてきたのが、
戦国時代では「間者」、江戸時代は「隠密」へと呼び名も変化し、地域別では、京都、奈良では「水破」、福井では漢字違いの「隠忍術」と呼ばれ、色々な呼び名があったようです。
「忍者」となったのは意外にも大正時代になってからで、裏社会で活躍する忍ぶ者という意味に変化したと言われています。
70を超える流派がある?
忍者の流派は日本各地にあり、根付いた地域や氏族などで分類され、全体数は定かでありませんが、70以上もの流派が存在していたのではないかと推定されます。
最も有名なのは、「どうする家康」の主要キャストである伊賀者の服部半蔵(山田孝之)です。
そのネガティブな役作りは、もはやギャグとして定着していますよね。
実は父である初代・保長は忍者だったようですが、彼自身は「忍者」ではなく、「忍者」を雇用する「武士」なのです。
というか、本人はそう希望していて、実際に忍者としての実力もありませんね💦
そこで、この時代に暗躍した忍者たちを以下の通り、まとめてみました。
①雇い主の武将家
②地域(現在の都道府県)
③簡単な概要
・伊賀者
①徳川家
②三重県
③日本で最も有名な三重県の忍者集団の一つ。織田信長により滅ぼされるが、生き残った一部は江戸幕府の公儀隠密になる。
・甲賀者
①六角家、織田家、徳川家
②滋賀県
③伊賀者と同様最も有名な忍者集団。伊賀とは協力したり敵対したりを繰り返す。
・戸隠流
①木曾義仲
②長野県
③現存する忍術流派で、真偽は不明だが起源は平安末期だとされている。
・黒脛巾組
①伊達政宗
②宮城県
政宗が組織した忍者集団。佐竹・蘆名軍による「人取橋の戦い」では、隠密で流言をまき、攪乱した。
・透波
①武田信玄
②山梨県
③彼らの情報網により信玄は全国の情報を詳細に知ることで、恐れられる存在となった。
・軒猿
①上杉家
②新潟県
③謙信が用いたが実態はほとんどわからない。謙信は出羽三山の山伏たちも諜報活動に用いていたという。
・風魔一党
①後北条家
③北条氏滅亡後は盗賊となり、処刑されたとされる。
・座頭衆
①毛利家
②山口県~広島県
③元就が用いたのがはじまり。彼らを諸国に派遣し情報を集めていた。
座頭とは盲目の琵琶法師をいい、有名な「座頭市」はここから?
・鉢屋衆
①尼子家
②島根県
③尼子経久が月山富田城の奪回の際に活躍した。
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家康最大のピンチを救ったのは誰?
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今回の瀬名の奪還に暗躍した伊賀と甲賀の忍者達は、これより約20年ほど先にも家康を助けることになります。
それは織田信長の招きを受けて畿内を観光中に「本能寺の変」が起こり、信長と同盟関係の家康が命からがら逃げ帰った「伊賀越え」です。
一般的に服部半蔵や伊賀忍者たちが全面的に助けたとされていますが、実は甲賀忍者の活躍もそこにはあったのです。
いやむしろ、甲賀忍者の方こそ活躍したと言ってもいいのかも。
甲賀には家康からの礼状や安堵状が各家にたくさん残され、近年ではむしろ、「甲賀越え」という説があるほどなのです。
例えば逃避ルートを以下の通りだと想定できます。
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京都四條畷→山口城→小川城→加田峠→白子浜→岡崎城
中央の甲賀に属す小川城の城主・多羅尾光俊は、近江国の武将ですが、元々は甲賀流忍術の要となる「甲賀五十三家」の忍びの名家でした。
織田家家臣の長谷川秀一の誼で家康一行を招き入れ、甲賀衆に道中警固させて伊勢の白子まで送り届け、その際の功労により山城・近江国内に所領を与えられています。
定説では「伊賀越え」だけが注目されてきましたが、「甲賀越え」もしてるやん!
という話しなのです。
果たして実態はどうだったのか?
このあたりも妄想が膨らむ所なので「どうする家康」での描き方が気になります。
極秘活動だけに実体は不明
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明治時代には、警察や軍が設けられ、忍者の活躍の場は急激に減少し、それ以後、「本物の忍者」というものは消失しているとされています。
しかし、本当にそうでしょうか?
あくまでも消失したのは表向きの話かもしれません。
隠密行動しかしない忍者たちは、周りの人々には気付かれてはいけない存在です。
もしかしたら、私たちの知らない場所で今も暗躍しているかもしれません。
例えば企業間や国の諜報活動に今もその子孫たちが関わっているとしたら?
とても大胆な妄想話かも知れませんが、可能性はゼロではありません。
歴史小説などに登場する「忍者」たちは黒づくめの姿で、様々な忍術や極秘活動が描かれ、それらが忍者のイメージとして定着しています。
しかし実際にはそんな目立つ服装ではなく、百姓や商人など一般人に紛れて活動しているはずで、ましてやその極意などは残されているわけもありません。
その実態も不明なら、それが完全に消滅したかどうかも定かではなく、水面下では脈々と今も続いているのかもしれません。
もしかしたら、現在もどこかで密かに生き続けているのかもしれないのです。
伊賀上野城と忍者博物館
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レキジョークルでも「伊賀」を訪れたことがあります。
変装好きな私達はもちろん忍者体験をしないわけはなく、絶対にあり得ないカラフルな衣装で、忍者になりきりました!
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博物館では忍術の手ほどきを受け、からくりの仕組みを知り、
伊賀上野城の藤堂高虎による高石垣に感嘆し、
松尾芭蕉の足跡にも触れ、
ここは本当に楽しめるところなので、かつて家族でも訪れた思い出深い場所なのです。
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【参考文献】
・THE GATE
・Yahoo!ニュース
・Ninjack
※サムネイル画像はCanvaで無料素材を使って製作したものです。
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