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「それだけ」をする、5分/1日

昨年の秋にオーダーしていた、銅のドリップポットが届いた。

小ぶりで、ミニマルで、直線と曲線のバランスが好ましい。銅の経年変化も楽しみな金工作家の品だ。大のコーヒー好きなので、コーヒーを淹れる道具が美しいというのは気分がいい。使い心地も申し分なく、それまで使っていた手頃なドリップポットより断然、微妙な湯量を調節しやすくなった。


コーヒーほど、淹れる時の気持ちが味に出る飲み物はない。

豆の品質だとか、お湯の温度とか注ぎ方とか、そういったクオリティーやテクニックも大切だけれど、「気持ちを込めて」淹れたコーヒーに勝る味はないと思う。

たとえスーパーのレギュラーコーヒーでも、コーヒーチェーンの豆でも、集中して「おいしくなぁれ」と念じて淹れたコーヒーはおいしくなる。私は美食家ではなく、コーヒーならばなんでも好きという人なのでなおさらだが、安い豆でも安いなりに、気持ち一つでおいしく淹れられると疑わない。

お気に入りのドリップポットがあれば、もうそれだけで丁寧に淹れる(結果、味も良くなる)というものだ。

§

以前、とあるカフェでコーヒーミルを買おうかと、棚に並んだアンティークのミルを眺めていた。「どれがおすすめですか?」と聞くと「今、ミルはお持ちですか?」と言う。当時は持っていなかったので首を振る。すると、店主は「じゃあ、どれでもいいですよ。好きなやつで」と笑った。

挽きたての豆を使う。それだけで格段にコーヒーはおいしくなるから、道具は好きなデザインを選べばいいというわけだった。技術的なポイントを訪ねても、「なんとなくで大丈夫。飲む直前に豆を挽くこと。どんなテクニックも、それには敵わない」と。


イノダコーヒ三条店の初代店長を務めた、猪田彰郎さんの本『イノダアキオさんのコーヒーがおいしい理由』は、アキオさんが似顔絵のままの笑顔で、穏やかに語ってくれているような一冊だ。そこでも、「大事なんは、技術よりも、気持ち」と綴られている。

道具は何がええやろとか、お湯の温度はどれほどやろとか
いらんこと考えんで、ええんです。
思いやりをもって、ちょっと手をかけてやる。

そしたらぐっとおいしくなります。*


めんどうくさがりの私だけれど、コーヒーミルを買ってからは、直前に豆を挽き、ハンドドリップでコーヒーを淹れることを続けている。

もしかするとそれは「いらんこと考えんでええ」から、というのもあるのかもしれない。

移動時間にスマホを見たり、テレビを見ながら洗濯物をたたんだり、食事中に写真を撮ったり。現代の生活は、「ながら」でできることであふれている。だけど、コーヒーを淹れるその数分は「それだけ」をする。都度、飲む分だけ豆を挽く。ふくらむ豆をじっと見つめ、ひと呼吸おいてお湯を注ぐ。また見つめる。「おいしくなぁれ」とつぶやきながら。そういう時間は、1日のうちで数えるほどしかない。

どんな動作でもいい。1日に1つ、「それだけ」をする時間を意識する。その時、そのことだけを考える。お茶をいれるという人も、おむすびを握るという人も、花に水をやるという人も。

おいしくなぁれ

きれいになぁれ

時間にすると、5分にも満たない。
けれど、その祈りが私には「今日もいい1日に」とも聞こえるのだ。


*『イノダアキオさんのコーヒーがおいしい理由』猪田彰郎=著(アノニマスタジオ)


[一日一景]
___1日1コマ、目にとまった景色やもの、ことを記しておきます。

岡山〈mutte〉の企画展で受注されていた、竹俣勇壱さんのドリップポット。銅の薬缶は数あれど、耐火のガラスポットを薬缶代わりにしているので(大のお気に入りで、以前noteにも書いたのでよろしければ読んでみてください)、作家もののドリップポットがあればいいなぁと思っていた。渋い色に変化していくのが楽しみ!

◯ガラスポットの記事はこちら


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