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あなたはどんな表現者?心根が表現に現れる

今日は友達のワンマンライブに行ってきた!

表現者のトークが刺激になったのか、
自分も4年前、人生で一番苦しくて表現がしたい、、、と泣いていた時のことを思い出した。かなり強い記憶ではあるものの、本当に忘れていた。

当時、「苦しみ」を放出したくて「表現したい」と毎日泣きつかれるまで願い求めていた。それを思った時、今自分がとても幸せに表現活動をして、表現者として成長している今の姿の変わり様に驚いたので、表現者としての自分の成長記録として書いてみる。

拙い文章ではあるものの、表現がしたい、表現とは何か?何を表現すべきかなど、ずっと考えてきた流れでまた一つ今日気づいたことを書くので、
表現が好き、表現したいけど、うまくいかない、何をすれば良いのかわからない、表現するけど苦しいなど、同じ様なことを思っている人がいたら参考になればと思う。


まずは過去の自分について。

4年前は、日々、自分がすべきこと、自分が輝く道、情熱をかけて生きていくべき道を探していた。

それが見つからず時間だけが過ぎていく毎日は、本当に苦しく、誰かに伝えることもできず、苦しくて苦しかった。

その思いをどうにか外に出したかったし、わかってもらって、存在の価値を認めてもらいたくて、こんな深くて真実なことを考えている自分ってすごいんじゃ無いかとまたいつもの変なポジティブさと高慢さの中で、Twitterやらインスタで自己表現をしていた。

でもいくら発信しても、いいねがつくわけでもなく、肯定されるわけでもなく、ただ真実な思いを正直に、恥ずかしげもなく、でも思い切って!吐露した、、、
割には、誰からの反応もないのがいつも、自分を虚しくさせた。


(ただこの経験は本当に今の私にプラスになっている。)

自分のことしか考えていない発言や主張は、共感を生むことがなく、本当に表現したとしても自分を虚しくさせ、より一層孤独が増すという学びを得た。

それが今、私が社会人の第一歩目として人材会社を選ぶきっかけにもなった。

人に関心を持てるようになりたくて、人の心を知れる人になりたくて。人のために行動できる人になりたくて、今の会社を選んだ。

本当に良い人、良い人生のための苦しみの期間だった。


今も日々、ゆっくりとだけど変化する自分。

会社の人からはすっかり、自分の数字のためにというよりは人の仕事も嫌な顔することなくやって、怒ることもない人物だと思われている。

そういう人物なのではなく、そういう人物になるためにこの会社に来て毎日働いている、というのはまだ内緒。。。


とにかく今日のハイライトの気づきは、表現について、同じ人間が「表現がしたい!」と思っても、心根にどんな思いを持っているかで出てくるものがまるで違うということだ

昔と今を比べてみると、本当に変わり様がすごいと気づいた。

以前は他人に苦しみを放出する壊れた原発みたいな表現者だった、、、
改めて振り返ると恐ろしい笑

4年で聖書を通して愛を学んだのだけど、今は、、、
神様からもらった喜びや、いつも幸せを感じられるように作ってきた平安な心を持ってダンスや写真などの表現活動をしている。

今の表現は、本当に「クリーン」だ。
私利私欲はなく、ただ神様の愛に包まれて嬉しい気持ち、天国のような気持ち、感謝の思い、もっと輝く人生を生きようとする善なる向上心、そういうキラキラした明るくてカラフルでポジティブなエネルギーを放出している気分。

余分な欲や複雑な悩み、変な自分の考えに囚われてないから、とっても心がシンプルで、スッキリしていて、クリーンな感じ。

毒々しく、腹の底から湧いてくる悩み、苦しみを放出していた過去とはまるで正反対!当時の姿を喩えるなら、グツグツとマグマが煮え繰り返る地獄だ。。。


御言葉を学び内面が綺麗になってきたことで、
内側から出る表現もそのようになった

そしてさらに、クリーンになった今、また次の段階に向かっている気がする。

部屋が片付いたら、素敵な椅子やランプを置いてみたくなるみたいに。
肌のニキビが治ったら、化粧や髪型をおしゃれにして装いたくなるみたいに。

自分の考え方や心が、汚いものを取り払って綺麗になったら、
今度は、よりいっそう素敵に装った表現をしていく時、、、?そんな感覚。

というのも、最近は、ただ自分の汚いものを取り除いてクリーンに作っていく段階から、今度は神様や人が願うことを自らしていく、より積極的な善、愛の生き方に次元をあげていっている感覚がある。
今までしていた「汚いことをしない」という段階から、それがある程度できたから、次は「良いことをしよう」という段階だ。

今までも人のために動くことはあったが、「自分がしてあげたいこと」をやってあげる様な段階だった。

今は、自分がしてあげたいことというよりかは、
「相手が望んでいること」をすることを意識している。

必ずしも自分にメリットがあるわけではないから、相手のために働く感じになるが、やってみると自分の都合の愛ではなく、相手に寄り添う、本当の意味での愛の心が湧いてくるのが徐々に感じられる。


まだまだ挑戦し始める段階なのですが、
このように心の内側の変化が、表現者としての姿、その人から表れるものになっていくことを実感した出来事でした!

表現したい!という思いは変わらないけど、
どうせなら自分も周りも幸せになる表現がしたい。とずっと思っている。

自分の苦しみしか表せなかった過去を思い出した時、今、本当に、そのようなポジティブな表現ができる人に成長していっているなと気づいた。

ずっと表現とは何か、どういう表現をしたら良いのか考え、その都度ノートにも書いてきた流れがあるので、今日はまた一歩成長して、自分の表現がそういう段階に突入し始めていることを感じて嬉しくて!この文章を書いてみました!


聖書を学んでずっと意識してきた言葉。

” 主なるあなたの神を愛せよ

 隣人を自分のことのように愛せよ ”


元々自己中心的なタイプであるわたしにはとっては、特に難しいけど、やってみると必ず自分を幸せに導いてくれる言葉

これを軸にしている今、今後表現がどんなものになっていくのか。。。

挑戦し甲斐があります!かみごたえのあるスルメのように噛んでいこう🍀


みなに神様から毎日溢れる暖かくて大きな愛を伝える表現者になれますように!
過去願ったようにまた願い求めようと思います!


求めることは必ず叶う!
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ちなみに、これを書きながら、自分の願いが知らず知らず叶っていたことに気づいた。

私は、教会に通い始めた時から、1つ不思議に思っていることがあったのだけど、それは

自分で手を挙げないのに、踊る機会がいつも与えられること。

1つの発表が終わると、ほとんど期間をあけず、次の機会がまた降ってくるのだ。それを続けて4年が経とうとしている。最初は2人で踊っていたのが、今は15人くらいの仲間がいる。

スルスルと表現の道が拓かれていくのが不思議だったのだが、
4年前、本当に苦しかった時期に自分が「表現がしたいよ、、、表現が、、、ひょうげn、、、」と毎日願い求めていた時のことを思い出した時、なぜ、こんなにも表現をする機会を次々に与えられたかがわかった気がした。

当時神様のことを知っていたわけではないけれど、どこにいても誰であっても、
切実に心から願い求めたことを天は必ず聞いていらっしゃるなということ。
改めて実感し、驚く。


人知れず叫ぶ声を聞いてくれてありがとう。という思いだけだ。

神様を信じてても、信じていなくても、
人が切実に心から願い求めることを天は聞き届けてくださり、
ふさわしければ必ず答えてくださる。

本当にいつもみてくれている、愛の神様だな〜という発見でした。

以上!

お読みいただきありがとうございました💕






サポート代は、神様が喜ばれることに使おうと思います。 神様が愛する人々のために、あるいは教会のために、あるいは日曜日に神様にあげる花代にしようと思います。