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教育は「洗脳」なのか: 価値観の疑い方を考える

「かけられている事にも気付けていない、洗脳を解く方法」。
ex) 日本の教育制度によって、機械的な人間の中で優れることが正義だと思い込んでいる、など。
僕が今の時点で考えて実践しているのは、とにかく知識をつけてそれを行動に反映させることです。

このようなテーマについて考えてみてほしい、というご提案を「宿題」としていただきました。

そもそも問いそのものに検討すべき点が非常に多く、安直に答えを出すわけにはいかないテーマだなと思います。
まず第一に、洗脳とは何なのか。
教育とは洗脳なのか。
日本の教育制度は「機械的な人間の中で優れること」へと国民を方向づけるように設計されている、と断ずることはできるのか。
思いつく限りでも、これだけの問いが浮かんでくるわけですから、素人の僕などの手には余る、ものすごく大きくて重いテーマだと言うべきでしょう。

せっかくいただいた貴重な「宿題」ですから、真剣に考えてみようと思いますが、この記事が学術的な裏付けや定量的な調査による根拠を十分に得て書かれたものではない、という点にはどうかご留意ください。
この記事を鵜呑みにし、この記事に書かれたことを根拠として教育制度その他について闇雲な批判を繰り広げたりすることは、まったくお勧めしません。
あくまで「なるほどこういう考え方もあるのか」といったくらいに受け止めていただければと思います。それだけ洗脳の問題というのは、センシティブかつ深刻だと僕は考えているのです。

それでは、どうぞ。

洗脳ってなんだ: とりあえず辞書的な定義から

あいまいな言葉は使い勝手がいいですよね。「あなたは洗脳されている」と言って他人にすりよる人間こそ、相手を自分の価値観や考え方に合うように変えようと画策していたりするものです。
ですから、あらかじめ言葉の定義を確認することはとても大事です。ということで、辞書的な定義などをここで軽くさらっておきましょう。

まず、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』における定義から見てみます。

個人の思想や価値観を,物理的,社会的圧力を加えるなどの操作によって必ずしも本人の欲しない方向へ急速かつ大幅に改変させること。共産主義国家などで行われた強制的な思想改造が知られる。感覚遮断や賞罰の操作などの反復による学習の一つといえるが,その効果は永続的でない場合が多いといわれる。(強調引用者)

それなりに詳細な定義づけがなされています。
「必ずしも本人の欲しない方向に」という記述からは、洗脳という行為がなぜ非難に値するかに関する、編集者の考え方が見て取れるように思います。
また、「急速かつ大幅」という表現には、洗脳という言葉が当てはめられるべき場面をそれなりに限られたものとする理解があらわれていると考えられます。

次に、三省堂『大辞林 第三版』、つづいてwikipediaにおける定義を見てみます。

① 第二次大戦後の一時期、共産主義者でない者に共産主義教育を施して思想改造をはかったこと。
② 転じて、ある人の主義・主張や考え方を根本的に変えさせること。
強制力を用いて、ある人の思想や主義を、根本的に変えさせること。

ブリタニカ百科事典と比べるとややゆるい定義のように見えますが、事例として、第二次大戦後に共産主義者に対してなされた転向の強制や、成立直後の中華人民共和国における反体制者に対する思想改変作業などを取り上げていることをふまえると、ブリタニカの定義とそれほど離れていないと言えるでしょう。

拡大される解釈

辞書的な定義は以上のようなものですが、「洗脳」という言葉に対する一般的な理解は、それにとどまらない広がりをもっているように思います。

おそらく「洗脳」絡みの出来事として日本で最も有名なのは、オウム真理教に関わる一連の事件でしょう。
あるいは、もう少し前の世代の方々にとっては、連合赤軍による山岳ベース事件などの印象が鮮烈かもしれません。
自己完結的なサークルの中で次第に個々人の思考が先鋭化し、常軌を逸した行動へと帰結していく……そういった過程が明るみに出るたびに、多くの人々は衝撃を受け、いとも簡単に思考が自律性を奪われていくことの恐ろしさをまざまざと感じることになりました。

おそらく、多くの人が「洗脳」という語を用いるときにクローズアップしているのは、他人の意図的な介入によって自律的な判断ができなくなること、他人によって思考か行動が操られてしまうことといった、思想改変とは少々異なる側面なのではないかと思います。
あまりの陰惨さゆえに殺人事件としては異例の控えめな報道しかなされなかった北九州監禁殺人事件や、幾度か報じられてきた著名人のマインドコントロール被害などにおいても、とりわけ着目されたのは「なぜ被害者は加害者の思うままでありつづけたのか」という点でした。
2000年代初頭のこうした報道のあり方は、「洗脳=他人を自らの思うままに操り、支配すること」という解釈を人々の間に浸透させる役割を担ったのではないかと思います。
そして、こうした見方がさまざまな物事に当てはめられていくことで、「洗脳とは一定の価値観や思考の方法に特定の個人を染め上げることである」とするゆるい解釈が広がっていったのではないでしょうか。

教育=洗脳なのか

僕が疑問に思ったのは、教育とは洗脳であると称することはできるのか、という点でした。

洗脳が悪とされるのは、「個人の意思に反して」「強制的に」思想の改変を行う行為、あるいは個人の自律性を根こそぎ奪う行為だからだと思いますが、教育は必ずしもこれに当てはまりません
たしかに教育とは、特定の価値観や判断のフレームを個人に植えつけるものではありますが、それによって自律的な判断を行うことは必ずしも妨げられません(もちろん、教えに反する行いを体罰などによって強制的に取り締まるタイプの「教育」は分けて考えられるべきです)。

ある思考の型を子どもに付与することそのものは、ミクロにいえば家庭に代表されるプライベートなコミュニティ、マクロには社会や国家という機構を継続させる上で不可欠です。
いかなる制度であれ、その中で個人が生きていくためには、ルールやふさわしい振る舞い、思考法について学習することを避けて通ることはできません。
人間が国家や社会という制度を採用して集団での生存を確かにしていこうとする限り、教育というシステムを捨てるのはなかなか難しいと思います。

たしかに、制度的に定められたものによって一定の価値観や思想を植えつけられてしまうことに、気持ち悪さのようなものを感じてしまう気持ちはわからなくもありません。
あるいは、自覚のないうちに植えつけられた思考のクセが、生きていくうえで役立つどころかしばしば妨げにさえなることに気づいたとき、自国の教育を非難したくなる、その気持ちもよくわかります。
ただ、そうやって自分のルーツを批判できる力がきちんと残されていること自体が、教育=洗脳と断ずることを「やりすぎ」だとみなす根拠になるのではないかと僕は思うのです。

もちろん、自国における人間形成のあり方を批判することそのものは、より良く生きるため、あるいは社会をより良くするために大切なことです。
実際のところ、学校教育で培われる能力と、実社会で生きていくのに必要な能力とのあいだに大いなるギャップがあると感じてしまう場面は少なくありません。
しかし、そうだからといって、「教育によって一定の価値観や思考のフレームをあらかじめ個人に対して植えつけるのは間違いであり、体制による犯罪だ」と言ってしまうと、言いすぎになると思うのです。
いかなる価値観にも染まっていないまっさらな個人しかいない人間集団は、理性に基づくつながりをもたない以上、社会と呼ぶことはできないはずです。

恐怖に負けないことの大事さ

洗脳という現象はたしかに怖いです。自分の力でものを考えることができなくなって、他人の思うままに操られてしまうようになったら……少し考えただけで不安が胸に押し寄せてきます。
しかし、この洗脳という言葉に織り込まれた恐怖の感情こそ、僕たちが最も注意して対処しなくてはならないものの一つではないかと思うのです。

今回の「宿題」を初めて受け取って以来感じていて違和感を、ここまで書いてきてようやく、自分なりに理解できてきた気がします。
つまり、教育という、良し悪しを簡単には判断できない大きな物事に対して「洗脳」という言葉を当て込んでいること自体が、自らの思考への自信のなさ、自律性に対するうっすらとした不安を示しているように、僕には思えてならないのです。
自分のものの考え方は、自分以外の誰かに知らず知らず仕込まれた、見知らぬ他人にとって都合のいいものでしかないのではないか……そんな漠然とした不安が、宿題を投げかけてくださった方をして、「洗脳」という強い言葉を使わしめたのではないかという気がするのです。

一般的に「洗脳」という現象は、単純な「教育」などよりよっぽど過激です。
線引きの難しいところではありますが、通常の学校教育よりもずっと黒に近いグレーを帯びたケース(会社でのパワハラや家庭内でのモラハラ、DVなど)はいくらでも存在すると僕は思います。
「それは洗脳なのではないか」と異議を唱える力が残されている人は、実際に洗脳を受けて苦しんでいる人よりも、ずっと洗脳とは縁遠いところで生きているのではないでしょうか。

回答

ややまとまりのない議論を展開してきてしまいましたが、僕は今回の宿題に関しては、そもそもの問いを変える必要があると感じています。
つまり、大事なのは「自分が根差している思考のフレームや価値観を見直すうえで何ができるか」であって、ある考え方を知らず知らず前提としてしまうことそれ自体を拒否することではないと思うのです。

だって、人間が学習する生き物である以上、幼少期に学んだ何事かを前提として生を営むことそのものを拒否することはできません。
それに、すでに身についてしまった考え方それ自体は意識して変えることができても、「制度的な教育によってそれを身につけてしまった」という事実を変えることは、過去を変えられない以上絶対にできません。
僕たちにできるのは、与えられたものをなんとか客観的な視点で批判的に検討し、より良くしていくこと、そしてアップデートした内容を後世を生きる人たちへと引き継いでいくことだけです。

そのためにできることは数限りなくあるでしょう。
「宿題」の提供者の方がおっしゃるように、知識を身につけることも大事でしょうし、他人と関わったり、自分が育った土地以外の社会のあり方を現地で学んだりすることも有効なはずです。
でも、まず何よりも第一歩として大事なのは、恐怖や誘惑に支配されない姿勢を持つことではないかと僕は思います。
間違った考え方に汚染されることを恐れすぎたり、「完璧な正解」を自称する思考法に魅了されることのない、地に足のついた精神を持つこと。これが一番大切なはずです。

国家や社会といった人間集団の数だけ思想や価値観があるのは、思想や価値観において完璧な正解が存在しない(少なくとも人類史上これまで存在しなかった)からです。あらゆるコミュニティで行われているのは、完璧と程遠い自コミュニティのフレームワークを、経験を踏まえてなんとかアップデートしていくことにすぎません。
そんななかで「完璧な正解」を標榜したり、他の価値観を根こそぎ否定するというのは、ありもしない「確実さ」にすがりたい人の弱みにつけ入って、それこそ他者を「洗脳」しようとする、身勝手なやり口というほかありません。
自分のルーツを過度に疑うあまり、「完璧」「正解」といった甘い言葉に惹きつけられてしまうことのないよう、恐怖と誘惑に負けない強い心を身につけてほしい。
何よりもまずそれが大切なことではないかと、僕は思います。

おわりに

久々に少し長い記事になりました。書きはじめたときには自分でも思っていなかったような結論に落ち着き、意外に思っています。
難しいテーマでしたが、書いてみてよかったです。僕自身、価値観をアップデートしながら人生をより良くしていくうえで必要な指針について、気づかされるところがあったように思います。

洗脳やマインドコントロールについては、半ば都市伝説的な憶測も含めて、実にさまざまな言説が流布しています。
必要なのはそれらを過度に恐れることではなく、自分の考え方など所詮は誰かから影響されて形作られたものにすぎない、自分だけの考えなどというものはありえないと、他者の影響そのものに対して広い心で構えることではないかと思います。
自分の考え方が絶対的なものでない以上、他の誰かの考え方が絶対的であるということも、またありえないのです。
そんな気構えで、いろんな考え方の違いを楽しみながら生きていけるとよいのではないかと思います。

それでは、今日はこのへんで!

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