それ「嫌われる勇気」じゃなくて「ただの臆病」だったりしない?

※この記事は『嫌われる勇気:自己啓発の源流「アドラー」の教え』を一切読んだことのない書き手によるものです。ご注意ください。

よくある展開の一例

そういうシーンをドラマや漫画で目にしたことはないか、思い返してみてほしいのだけど、たとえばある勢力ともう一つ別の勢力とが大きな争いに発展する決定的なきっかけを作ってしまうのは、往々にして小物のモブだったりする。

敵方の女子どもたちが夜にまぎれて遠くへと逃れようと小路を忍び足に急いでいたところにバッタリと出くわしてしまった臆病な若侍が、「こ、この厄病神どもめ……!」だの「お前らはみんな母さんの仇だッ……!」だのと震え声を絞り出したかと思いきや、絶叫しながら無我夢中で斬りかかる、なんてシーン、一度は見たことがないだろうか。

早まった行動が、互いの憎しみをいっそう掻き立てるなり、相手を責める口実となるなりして、争いは加速していく。
大きな悲劇と混乱は何もかもを巻き込み、死なずに済んだかもしれない多くの人たちが死ぬ。
よくあるといえばよくある展開ではないかと思う。

ギリギリのところで耐えていたものが何をきっかけに決壊するかは、大いに偶然に左右されるだろう。
しかし、「対話する勇気」を持たない臆病な小人物の行動がしばしば、それまでかろうじて保たれていた均衡を崩す決定的な発端となる、という描写は、一つの真理を映し出しているようにも思う。

拡大解釈される「嫌われる勇気」

「嫌われる勇気を持て」という言説が、人口に膾炙して久しい。

嫌われることを恐れるな、他人のよこす評価や批判から解放されろ、他者との摩擦なくして自由はありえないーー。
承認欲求の檻に囚われて身動きがとれない現代人に、この教えは痛烈に響いたのだろう。
自分らしくのびのびと生きるために、他人を恐れずに済むだけの強固な自己を確立していこう、という思考の方向性は、犬も歩けば棒に当たるほどに、どこでもかしこでも見られるものになっている。

嫌われる勇気を持て。たしかに、と感じるスローガンだ。
責任を取る気もないのにああだこうだと口を出してくる彼岸の他人の言い分に耳を傾けたところで、気疲れこそすれども得るものはほとんどない、というのは確かに思える。
耳も頭も身体も、我々には一つずつしか与えられていない。それに対して、他人は星の数だけ存在している。
そのすべての声に耳を傾けていたら、80年ぽっきりの人生などあっという間に吹き飛んでしまう。

しかし、だ。
「嫌われる勇気」という言葉は、どうにも拡大解釈されて、元々の含意を歪められがちなようにも思える。
この言葉を借りてなされる「嫌われても別にかまわない」という無数の表明の中には、ちらほらとではあるけれど、「嫌われることさえ覚悟できていれば、何をしてもいい」という開き直りが混じっているように感じられてならないのだ。

「嫌われる勇気」という言葉の含みは、「摩擦なくして自由はありえない、嫌われることを恐れて他人に迎合すべきではない」ということであって、「相入れない他者との関わりは無用であり、摩擦は排除されるべきだ」ということではないはずである。
けれども、しばしば「嫌われてもかまわない」という表明をともなってなされる振る舞いの中には、嫌う側の事情など知ったことではない、そちらが嫌うなら交流を断つまでだ、といった、ゼロかイチかしか許さない二元的な態度が見て取れるように思えてならない。
それは勇気というよりは、自分を傷つけうるものは何であれ切り捨てようとする臆病さ、過剰な自己防衛意識の表れではないのか。
摩擦をこえて自分を世界の中に確立するというよりは、自分を傷つけないものだけを内側に閉じ込めてシェルターを打ち建て、そこに引きこもろうとする態度ではないのか。

あちこちから聞こえる「別に嫌われてもかまわない」という言葉。それがときどき単なる強がりのように聞こえるのには、そういった背景があるのではないかという気がする。

いつかは、臆病さの先へ

誤解してほしくないのだが、臆病であることを否定したいわけではない。
吹けば飛ぶような存立根拠のうすい「自分らしさ」、かろうじて見出した「自我らしきもの」を守るために、やたらめったら牙を剥き、さわるものみな傷つける、そんなあり方も時に必要なのだと思う。
だって、必死で守らなかったら誰が守ってくれるのか。応援してくれる味方より、嘲笑い否定する敵のほうが少ないとどうして言えるだろう。
無数の否定に心折られて元いた場所に逆戻りするのと、掌にある小さな種を守るために牙を剥くのと、どちらがベターかと断ずることはできない。
過渡的な段階として、臆病なハリネズミのようなポーズで世界に対して身構える時期があってもよいのじゃないかと僕は思う。

しかし、それは裏を返せば、いつかはその段階を抜けて次へと進んだほうがいいんじゃないか、ということでもある。
嫌うなら嫌え、味方してくれる人だけ大事にして俺は好き勝手やらせてもらう、という態度が通用するのは、あくまでごく限られた範囲、小さくて狭い世界だけだ。
好き勝手やった成果を喜んでくれるのは、ごく限られた同じ顔ぶれの身内だけ。しかも彼らとて、一生その好き勝手に付き合ってくれる保証はない。

いつかは、自分の好き勝手な振る舞いを受け入れ肯定してくれた人たちに感謝しながら、次のステップに踏み出すべきなのだと思う。
私を嫌う人は山ほどいるかもしれないけど、あんなにも愛してくれた人がいたのだから、今度もきっと大丈夫……そんなふうに言い聞かせつつ、過剰なほどに自分を肯定してくれた優しい人たちのもとから羽ばたいて、自分を試すほうがいいのではないか。
そして己を傷つけようとする悪意とはしっかり距離をとり、自分なりの飛び方を確立させていくーー。
何が起こるかわかったもんじゃない長い人生を生き抜くうえでは、自分の殻に閉じこもるより、適切な飛び方で飛び続けるほうが、むしろ安全なのではないかとさえ思う。

歳をとっただけじゃ人は完成しない

思い返せば、ハリネズミのジレンマを経て人は青年から大人になっていく、なんて話は、少なからぬ人が、目を背けたくなる青臭い時代に一度耳にしているはずで、わざわざこんなnoteで繰り返すまでもないものだ。

でも、そんなことをわざわざ書いた。書いてしまった。
それがなぜかは言うまでもないと思う。歳を食ってもハリネズミであることをやめられないうえ、それが「嫌われる勇気をもった立派な大人になった」証拠だと考える人が、そこらじゅうにわんさかいるからだ。

自分のことを棚に上げる気はない。
僕だって嫌われるのは怖いし、僕を傷つける人やものとはできる限り関わりたくない。
関わらなくてはならない範囲を超えて、わざわざ関わる必要があるとも考えていない。

それでも、関わりたくないものと適切に距離をとることと、「自分らしさ」を「自分を脅かすもの一切を切り捨てること」と勘違いしたまま突き進むことの間には、やはりはっきりと線を引いたほうがいいと思うのだ。
いい歳の大人が「嫌われる勇気」を履き違えがちであることは、この区別をきちんとつけることの難しさを、皮肉にも証明している。
クレームにクソリプその他過剰な主張というのはおおむね、意見表明を装った過剰な自己防衛である、なんてことはもはや言うまでもないだろう。

「嫌われる勇気」に限らず、解釈の余地がある言葉を自分の立ち位置に合わせて読み替えることは簡単で、簡単なぶん、意図するしないにかかわらず僕らはそういうことをやりがちだ。
だからこそ僕たちは、シンプルな言葉を使うときには慎重でなくてはならない。
その解釈に何か間違いはないか、甘い毒のようなものが紛れてはいないかーー。
より開けた生き方を志向する人は、絶えず念頭におくべき問いかけであると思う。

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