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「上手に受け取れる」というゆたかさ

家のテーブルに3個、大小とりどりの箱が積まれている。
我がパートナーが高校時代の友人たちに贈るために準備した、少し遅めだったり早めだったりする誕生日プレゼントたちだ。

ものを贈る行為そのものを好む彼女だけあって、ラッピングや飾りつけには丁寧で細やかなこだわりが見てとれる。
わざわざ雑貨屋で買ってきたボール紙の箱に、こだわって選んだリボンやシールをあしらったり。
なるほど飾りつけというのは、相手に贈る気持ちを形にして、贈答の喜びを高めるものなのだと、前夜にせっせと作業していた彼女の姿を思い返しながら感じ入った。

贈答は、結構な負担だ。面倒だし、なにかと気を遣う。

そんなネガティブな側面が押し出された結果、現代はかつてと比べて、ものの贈り合いをあまりしない時代になったように思う。
ご祝儀を省くスタイルの結婚式は増えつつあるし、お中元やお歳暮も若い世代の年間スケジュール感覚からは存在感を失いつつある。
引き出物も、カタログギフト形式が採られて、受け取る側の欲しいものが贈られるパターンが増えているように思う。

相手の欲しいものをそのまま贈る、というのは、楽なうえに無駄がない。
あ、これもう持ってるやつだ、とか、あー、このブランドちょっと因縁あって好きじゃないんだよね、などといった「地雷」を踏むリスクも避けられる。
単純に相手のニーズを満たそうと思ったら、「欲しいものを訊いて、それを送る」という手順がまず間違いない。

しかし、無駄のなさというのは工夫や努力の余地のなさでもある。
100%予想どおりであるからには、意外性も生まれようがない。
面白みも付け加えにくいぶん、思い出にも残りづらい。
贈られた側に残るのは、モノそれ自体のほかには、「欲しかったものを手に入れた」という感情だけである。
それはどうしても、「もらったこと」を長きにわたって記憶するうえでのフックにはなりにくいのだ。

プレゼントってやっぱり気持ちだよーー。
そんなふうに言う人たちの言葉にも、やはり一理あるわけである。

さりとて、上手に何かをあげる、というのは難しい。
こちらも気を遣うし、あちらも気を遣う。

「贈与とは暴力である」みたいな論議を、高校時代に現代文の教科書だか模試の問題だかで見たことのある人もいるだろう。
贈られたら受け取らなきゃいけないし、返さなきゃいけない。
贈与とは返済を強いる行為であるからして、一方的に他人に何かを送ることは暴力となりうる、というわけである。
たしかに、なんとなくわかる気がする。
「要らんものよこしやがって」という悪態をつくときはたいがい、余計なものを押しつけられた苛立ちとともに、もらいっぱなしでいることに由来する一種の気持ち悪さを、どこかで感じていたりするものだ。

かといって、贈り物とは一にも二にも暴力だ、と言ってしまえば言いすぎになるだろう。
それに、他人とのやりとりを含む行為というのは、大方何であれ暴力に発展しうるのであって、それは贈答に限ったことではない。
何だってやりすぎれば害になりうるし、人が絡めば迷惑になりうる。
ふわふわあま〜いマシュマロだって、60個くらいまとめて喉に詰め込めば、たちまち人を殺める凶器になるだろう。

そう、要は程度の問題である。
何かをあげることそれ自体が危険な暴力的行為だというわけではない。
つまるところ「やりすぎ」がいけない。問題の種は「やりすぎ」と「やらなさすぎ」のどっちかである。

もっとも、「やりすぎ」の見極めに困るからこそ、贈り物をする場面で手を抜く人が増えているという側面もあるだろう。
どんなに気をつけたところで、結局相手が嫌な顔をすればそれは「やりすぎ」なのである、と。
他人の気持ちなんてわかりっこないのだから、最悪の場合を見越して無難な選択をするというのは、見方によっては賢い選択である。

この賢い選択の積み重ねが、贈答をつまらないものにさせていくーーそんなふうに世を儚むのも一つの捉え方だろう。
ただ一方で、逆から見る考え方もある。つまり、「贈られる側にだって原因はある」という見方である。
贈られる側の「贈られ方」が下手で未熟であるかぎり、送る側が工夫を凝らしたところで良き贈答は成立しない。そんなふうには考えられないだろうか。

たしかに「もらう」という行為は、ときに「欲しくもないものを押しつけられる」という面倒に転化する。
できれば関わり合いになりたくない人やネットワークとの回路が、「もらってしまった」がために開かれることになり、うんざりするような場合もなくはない。

ただ、翻って言えば、自分の予期しないものを受け入れ受け取るときの態度とは、未知のものに対する「ゆとり」、バッファの大きさのバロメーターたりうるとも考えうるのではないか。
うっとうしいな要らねーわこんなもん、ともらったものをやたら迷惑がる人と、こんなものもらっちゃった、と自分が受け取ってみたものを多少前向きに吟味する余裕のある人、どちらにより「ゆとり」を感じるかは明らかだろう。
そしてその「ゆとり」は、世界や他人に対するオープンネスに直結しているように思える。
より世界を楽しみ、より人生を楽しめるのは、どちらかといえば受け取ったものに寛容な人ではあるまいか。

こだわりを持つことを否定するわけではない。何を好み何を避けるか、基準をしっかり有していることは人生を豊かにするうえでとても大切だろう。
ただ、こだわりにそぐわないものは受け入れない、というあり方より、広がりはあるのに軸はブレてない、というスタイルのほうが、どちらかと言えばかっこいいんじゃないかと個人的には思う。

現代は、かつてより贈答というコミュニケーションスタイルが後景に退いた時代かもしれない。
そしてそれはたしかに、「贈答が結ぶきずな」よりも「贈る面倒くささ」が勝ると、多くの人が感じてしまったせいかもしれない。

ただ、それとは別に、実は「受け取る側のゆとり」という問題があるんじゃないか。
ひとまず受け取ってから考える、そんなことができる余裕を、持てなくなっているのか軽んじるようになったのかそれはわからないが、いずれにせよ多くの人が失っているんじゃないか。
それが時代や社会のせいかはよくわからない。いや、そんな問題があるという証拠さえそもそもない。
ただ、贈答が双方向的なやりとりであることを免れない以上、片一方だけに変化の原因があるとは考えにくい気がする。

いずれにせよ、贈り、受け取るというやりとりが、豊かで楽しいものであるためには、ゆとりや寛容さといったものが欠かせないのだろうと思う。
一人で過ごすには長すぎるこの人生、どうせなら開けた態度で楽しんでみたい。
そのために、久しぶりに誰かと何かを贈り合ってみるというのも悪くないかもしれない、と、テーブルの上で出発を待つ贈り物の箱たちを見て、心を動かされた次第である。

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