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年越しの瞬間から1年を好転させる


2021年の1月が終わろうとしている。
味気ない1ヶ月に思えたこの月に今一度色を重ねてみたいとふと思った。


年を跨ぐとき

年越しの瞬間は、一体どのように過ごすのが正解なのだろうか。ガキ使を見たままなのか、カウントダウンライブで一緒に数字を数えるのか、そんなこと関係なく寝て過ごすのか、初詣の準備をしておくのか。

どの過ごし方も、結局は思い出として美化されるし、不正解にはならないし、魅力的に見える。年越しの瞬間は何してたっていう質問は割と好き。
寝過ごすのは結構考えた。シンプルに眠れなかった。心がガヤガヤしてて眠れるはずもなかった。

じゃあ、どうしていたかというと、自分の部屋にこもって、イヤホンをしてノイズキャンセリングをして、ネクライトーキーのオシャレ大作戦を聴きながら年を越した。テレビも家族との団欒も抜きにして、次の年への橋渡しを、たった一人だけで迎えた。

上手いこと身動きが取れずに、時間だけが過ぎていった2020年を回顧しながら聴いたオシャレ大作戦は心にグッときた。

どこで終わりが来るかわからない、有限の時を生きていることになっていると伝えてくれて、私に良い緊張感を分け与えてくれた。


節目は大事にしたいという意識があるのも相まって、好きな曲に身を任せて年を越すと感傷的になる。過剰な精神負担を一通り通過していくと、ピンと張っていたものが弛緩されていって力が抜けていく。体全体の筋肉を使うのができなくなって、椅子から動けなくなっていた。

過剰なインプット、それを処理する時間。
後に訪れるのは有り余るほどのパワーの付与だ。
2021年も、綺麗とはとても言えないこの世界を生きてやりたいとブーストがかかった。

無敵感を纏い、1時には意味もなく近所のコンビニまで歩いていた。なんでもできてしまいそうだと過信できるのは一瞬で尊い感情だから。

またこの無敵感を味わって無双できるところまで自分を持ち上げていきたいが、次はいつになるのだろう。誕生日かな。多分そうだろうな。


本当は他人にしか見えない

音楽にここぞとばかりに身を寄せて、近くのものをノイズ扱いしてキャンセリングを図る。まるで人は自分だけしか存在しないかのように。

人の温もりというのは可変的であって、恒常とは無縁の位置にあって、ここに寄り付くのは私は苦手だと思い込んでいる。そういう刷り込みが過去の経験からされたまま破れずにいる。

依存する関係性に恐怖を覚えている。何に関しても主観から離れられずに、慮るに足らなくて。
それだけ自分に立て直せるだけのスキルと自信がないからだろう。依存した関係まで進展しているのであれば、相手だけが一方的に悪いという関係性は稀だし、立て直したり組み直したりは自分で済ませていくべきとも言える。

そういう意味での責任感をしっかり背負いながら、もう少し人に近付きたい。倒れない程度で、凭れかかるぐらいには重心を人に寄せていきたい。

これ以外にも2021年1月に重ねた事実はあるが、年越しには到底及ばない。


渋谷

用事でしばらくぶりに渋谷に下りたときに見えてきたものは、心の鏡にきれいに写されていて、渋谷という街に特別な感情を抱きがちなのはあながち間違いではないと気づいたのは確かに今月だった。

足元に目線を合わせてみたらゴミが転がっていて、均してみると排他的なのに、渋谷に行って地上に顔を出すたびに少し興奮しているのも事実だった。
決して綺麗ではないのに、理想化のフェイズを通して魅力的に自分が見せられている。

ひとまずこの辺にしておく。ちょっとだけ先行して考えてみた。話が膨らみそうな気がした。
もし書き残したいと思ったなら、時系列とタイミングを無視して勝手に書くだろう。もっと鮮明に書けるような日が来るとすれば、の話だ。


精神面の波はどうだったか。大きく崩れ落ちたり荒れるような事態にはなっていないが、精神の健やかさのグラフは右肩下がりで少しずつ悪くなっている。このまま放っておくと罪悪感を払拭できないまま、自暴自棄になるのも目に見えている。

緊張感、プレッシャー、焦り、張り。どれに当て嵌まるのかはその場の捉え方次第。

能動的に物事を捉えて主体となって好転させたい。

澱んだものばかりに目がいくのも認めながら、この今を生きてやりたい。

オシャレ大作戦で始まった1年。


やるしかない、ここまで来た
「さぁ!」

自分を甘やかしてご褒美に使わせていただきます。