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先生の記憶 【エゴイスト公開記念】

その建物は丘の上にあった。
窓からの景色は開けていて、遠くには海が見えた。海の青は色を変え、徐々に空と溶けていくようだった。僕はこの部屋で何度もこの海が空に溶けていく風景を眺めていた。日によって空はその深さを増し、時によってその色合いを変えた。

片田舎の辺鄙へんぴな場所、言ってしまえばその通りだ。でもこの小さな建物はりんとして強く、その丘に建っていた。随分前に立てられたようだが、並んだ丸太逹がしっかりとお互いを支え合っていた。

僕はここで先生と出会った。僕に鮮烈な記憶を残していなくなった先生。
見かけたのは町外れの画材屋だ。ガラスの向こうを真剣な表情で見つめる、その澄んだ目の碧さに一瞬で僕は惹かれていた。やがて背を向けて歩き出すと右足をかばう仕草をして、背をすこし丸めていた。気付くと僕はその背の行く先を追っていた。

空の晴れた休みの日、たまたま僕は自転車で出かけた。
陰鬱とした部屋を出ると、陽気が僕の気分を久しぶりに明るくした。そんな時に僕はこの建物を見つけた。

入口には先生が立っていて、僕と目が合うとはっと身をすくめた。抱いていた紙袋のリンゴが落ち、リンゴ達は緩やかな坂道を転がった。僕は自転車を降り、リンゴを広い集めると先生に手渡した。

先生の顔が僅かに紅らんだように見えた。しばし目が合ったまま、僕たちは口を開くことができなかった。少し息をついて、先生が言った。
「ありがとう。良かったら一緒にこのリンゴを食べていかない?」
その時の僕には何故だか何の警戒心もなく、素直に頷いていた。多分あの澄んだ碧い目をもっと見ていたかったんだと思う。

ドアを開けると、部屋中が古い油絵の匂いで満たされていた。外の日差しが眩しかったせいか、その部屋はほの暗い雰囲気がした。部屋の中には異国情緒を感じる色合いと家具達が並べられていた。窓辺にはキャンバスが置いてあって、遠い海の景色が描かれていた。

渡されたリンゴをかじると、爽やかな酸味と甘みが喉を伝った。
歯型の残った皮の赤みと果肉の白さが対をなして、熟す手前の酸味を感じさせた。厚手のカップに入ったコーヒーは、甘みの後でさらに苦みを増したように感じた。

僕はここで先生から色々な話を聞いた。高校で美術を教えていたこと、事故で最愛の人を失い、自身も右足を痛めたこと、一人でこの部屋に住んでいること、今は窓から見えるこの景色の美しさを表現するのに楽しんでいること、そしてシャルフベックという画家が好きで、自分の描く絵にも影響を受けたこと。

ひとしきり話し終えると、先生は僕をソファーの前に置いた木の椅子に招いた。笑顔で招かれるまま腰を下ろすと、先生はデッサン帳をイーゼルのキャンバスに重ね、鉛筆で僕の肖像を描き始めた。描いている時の細くしなやかな指の動きに惹かれた。30分程で先生は手を止めて満足そうな表情を浮かべた。
「この半年で一番の出来かもしれない。」
そう言って先生は子どものように笑った。屈託のない笑顔だった。

それから僕はたびたびその部屋を訪ねた。そのたび僕はデッサン画のモデルとなり、その間僕は先生の目の碧さを見つめていた。年が離れていた割に、僕と先生は様々な話をした。先生は穏やかな微笑みを浮かべ、嬉しそうに僕の話を聞いていた。僕は先生と過ごす時間にも惹かれるようになった。いつしか僕は先生のことを先生と呼ぶようになった。

ある夏の夕暮れだった。部屋の床にはそこかしこに鉛筆書きの僕の肖像画が並んでいた。僕の分身達だ。
「今度は本気で、油絵を描いてみたいんだ。」
思い切ったような表情で先生が僕に打ち明けた。
「キミとの出会いの思い出に。」
つい先程まで澄んだ青空があったはずの空に、遠く雷鳴がとどろきだした。
「一雨くるね。大丈夫、やみ上がるまでこの部屋で待つとしようか。」
先生はそう言うと、僕の唇をそっと人差し指で抑えた。

脇の壁に置かれた布製のソファーに僕を座らせると、先生の碧い目が真っ直ぐに僕を見据えた。
「後ろ姿が綺麗だと思っていた。背中の線を美しく描きたい。」
そう言って僕のシャツのボタンを外していくと、横にあった白いシーツを腰にかけてくれた。僕は油絵と先生の匂いに包まれていた。
外では雷鳴が轟き、大粒の夕立が屋根を鳴らした。先生の碧い目があって、視線の先には僕がいる。僕を前に真剣な眼差しの先生がいる。そう思うと体の芯が熱くなるようだった。

それから僕は何度となく先生を訪ねた。
白い布の上で黒が線を成し、曲線を成し、やがて色づけられて肉体へと姿を変えていった。いつしか僕もソファーの上で先生に色づけられるようになった。それは先生に優しく包み込まれるような不思議な感覚だった。秋が終わり、先生が次第に激しさを増すようになった頃、絵は一応の完成を迎えたように見えた。
「まだだ、この絵にはまだ魂が宿っていないね。」
そう言って先生の動きはさらに激しさを増した。

一度先生が終えた後で人の名を口にしたことがあった。亡くなった先生を愛した人のことだろうか。その人と僕が一体となったのだろうか。先生と僕たちが一つになったのだろうか。そんなことを僕は考えて、でも答えのない問いに答えられない僕は、疑問を疑問のまま心にしまい込んだ。

後で先生が教えてくれた。先生も町で僕を見かけて、僕に惹かれてしまっていたこと、だから僕が急に先生の前に現れて、おもわずリンゴを落としたこと。先生は初めてだった僕に色々なことを教えてくれた。愛のようなもの、切ないような感覚、恍惚や安らいだ時の流れ、肌の温もり、汗の匂い。

絵の中で僕は凛とした表情をこちらに向け、胸元を紅らめていた。
絵が描き上がる頃、僕と先生はどうなっているのだろう。
不思議と不安はなかった。でも何の未来も見えなかった。

いつしか先生の腕の中で眠りについていた。安らかな眠り、欲しかった眠り。僕はきっとこういう安心できる世界を夢見ていた。夢ではない、心に隠していた記憶のが突然渦を巻くように脳裏を襲った。そして次々と脳内に鮮明な像を描いていった。

僕の家はごく普通な家庭だった。当時の日本はバブルが来て、不動産経営の父は自分を見失った。抱えきれないお金を手にした父は、導かれるように坂道を上り、そして脆くも下っていった。やがて酒に溺れ、暴言と暴力が彼を支配した。お嬢さま育ちで夢見がちな母はひどく狼狽し、父と同じく自分を見失った。二人狂って暴力に支配された世界へ墜ちてしまった。僕は大好きだった母を守ろうとしたが、その度母ともども父の暴力の餌食になるだけだった。アザを抱えて泣き崩れる母に抱かれ、僕の心は少しずつ疲弊していった。信じていた世界が崩れていく様を、僕はこの耳でしっかりと聞いていた。儚いはかないとか、脆いもろいとか、無常とかいう言葉の意味を知った。

バブルがはじけて、ある日の早朝に父は死んだ。書斎で自ら首を吊ったのだ。僕は母の声にならない声を聞いて、僕の信じた世界がさらに崩れていくのを実感した。父の葬儀は無意味で何の感情も起こらなかった。平穏な日々の到来を喜ぶ自分と、優しかった父の記憶が相反して僕の心で争いを続けていた。そして母は心を病んだ。既に病んでいた心を繋ぎ止めていた糸が切れたようだった。妄想や狂言に支配された母は、やがて僕のことも分からなくなっていった。見かねた母の兄が母を病院に収容させた。そして僕は自由と孤独を手に入れた。

当時仲良くしていた同級生の女の子が僕を気にかけてくれた。話を聞いた彼女の母も同様に僕を案じてくれていた。両親が荒ぶって残酷に破壊された自宅の片付けや後始末に追われた僕を、彼女たちは献身的に助けてくれた。でも彼女の母も人知れず夜な夜なに僕に近づいた。肌に触れるのを優しさだと誤解した僕には何の抵抗もなかったが、快楽の訪れと共に乱れていく彼女の姿に辟易へきえきとした。恍惚の手前で僕は以前と同じ恐怖を覚えたのだ。壊れていく人達、自分を見失う人達の姿を目の当たりにして、僕はこの世界を憎んでいた。

何もできない、何も知らない無垢な高校生。それが僕だった。でも彼らは揃って僕にこの世界の乱れた衝動と快楽、そして恐怖を教えた。そして僕は何とも言い難い感情に包まれて、生かされていた。そんな陰鬱いんうつとした状況で会ったのが先生だった。

先生には憎悪も嫌悪の感情もない代わりに、高揚や恍惚の概念もなかった。終始心は静かで落ちついていた。後になって、ようやく恍惚が先生にも訪れたことに何故か僕は安心した。

だから僕は先生のいる景色を望んだ。先生の温もりも、匂いも、汗も全てが愛しく思えた。ただ少しずつ荒ぶっていく先生のことが心配だった。碧かった目がいつしか黒く濁っていくように見えた。

絵が完成する頃、先生は僕を見つめて悲しそうに言った。
「絵は完成した。この絵にキミへの思いを全て注いだ。僕の最高傑作だ、受け取ってくれないか。」
不思議なことに、僕には先生の言葉が空虚に感じられた。絵の完成を望んでいなかったのかも知れない。でも僕には何も言い返す力は残っていなかった。ありがとう、ございます。それだけ言うのが精一杯だった。涙が頬を伝っていた。

先生は僕を抱きしめて、ありがとう、ありがとう、そう繰り返すと涙を浮かべて寂しそうに笑った。互いを見つめ、互いに宴の終わり味わった。

部屋を後にした僕の頬を涙が伝っていた。僕は泣きながら帰り道を歩いた。月が綺麗な夜だった。滲んだ月を見て、先生のいない世界を考えた。不思議と絶望はなかった。希望もないが、僕には不憫な自由だけが残った。

それから父の叔父が僕を助けてくれた。彼の家に引き取られ、身の回りの面倒を見てくれた。何も求められなかったが、叔父は家の財産に興味があったようだ。僕にはその価値も分からなかったし、欲しいとも思えなかった。先生のいない世界には虚無感が漂っていた。

大学に進むと、僕はこの土地を離れた。そしてもう二度と帰ることはなかった。


 ↓叙情的で美しい世界が堪能できます。
 個人的には鈴木亮平さんの仕草の一つ一つがとても好きです。
 映画に感化されて叙情的な世界を書いてみました。

題絵は映画エゴイストHPより


2019年のオスカー授賞式。日本の文化も変化していくのでしょうね。

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