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ねがいごと

 シャンッと、整列させられたような空気が一面に漂う冬の空に、一瞬だけど流れ星が光った気がした。
 すぐさま私は見上げた夜空に目を凝らしたが、そこに軌跡は何も残っていなかった。

 「電波って不思議っすよね。目には見えないのに、ほら世界中の人がネットとか電話してるから、絶対そこらじゅう電波だらけなんすよ」
 バイトの帰り道、駿くんは私の隣、一メートルくらいの距離をあけながら歩いている。
 「例えば、これが電波が見えるメガネだったとして」
 彼は、彼が掛けている丸眼鏡を指差す。
 「おお、やべえ。亜希さん危ないっす。ああそこにも電波が、そっちにも!」
 駿くんは三つ下の大学生で、四六時中少年の様にはしゃぐ。
 「迂闊に歩けないわね」
 「つまり、僕が何を言いたいかというと、何千万の電波が糸だとしたら」
 目に見えないもの、私はサンテグジュペリ星の王子様を思い出す。
 「人間の繋がりって、どうしてもこんがらがっちゃいません?」
 ふむ。幾千、幾万の糸が繋がり絡まるのが人生かもしれない。
 人によっては、よりシンプルに生きていたいと思うのだろう。
 アマゾンもグーグルも、私の好みをデータ化して似たようなものを掲示する。
 偶然性の排除された世界では、糸がこんがらがることはない。
 どこまでもまっすぐに、まっすぐに。そんな道を人は行けるのだろうか。それは幸せと呼べるのだろうか。

 「ねえ」私は声に出す。
 「はい?」
 駿くんに話しかけたわけではない。でも声は届いている。
 繋がりってみんな簡単に言うけれど、いったい何なんだろう。
 「あー、いつまで続くんだろうねこの生活」
 わたしが吐き出す息は白く小さく漏れ、宙に舞う。
 「本当ですよ、マスクとかもういい加減外したいわー」
 パンデミックは、確かに人を孤立させた。人と人との間には距離が置かれ、次第にその事が当たり前へと変わった。
 「じゃあ、私こっちだから」
 「あ、はい。家の近くまで送っていきましょうか?」
 「いいよ別に。子供じゃないんだから」
 駿くんが私に気があるのは何となく感じている。
 そばにいてくれる、これくらいの距離感で尚人ともいられたらいいのに。

 八畳一間のワンルームへ帰宅すると、机の上に出しっぱなしにしているノートパソコンの電源を入れた。
 東京とニューヨークの時差は、十三時間。亜希がバイトを終えて帰宅するのはだいたい夜の十一時になるから、向こうは午前十時だ。
 アプリでビデオ通話を起動する。オンラインの会話も慣れたものだ。
 しばらくすると、ニューヨークにあるアパートメントの一室が映し出された。ソファに脱ぎ捨てられたネルシャツや床に散らばった無数の写真と酒瓶。
 明らかに寝起きの様子で尚人がモニター前に姿を見せた。無精ひげとくるくるうねった肩までかかる髪の毛。首元が大きくあいた白いカットソーに、モッズコートをざっくり羽織っている。
 「今起きたの?」
 「せやねん、昨日夜遅くて」
 尚人は頭を掻きむしってふああと欠伸をあげる。
 「どう最近?」
 「最近って、こないだも電話したやん。変わらへんよ。今年は厳しいんちゃう」
 尚人は写真家としてニューヨークへ渡った。しかしコロナ禍に世界がシフトしていく中で、明らかに仕事が減っていた。
 「亜希は? 描いてるん」
 「え? ああ、うん。バイトが忙しくて、あんまり」
 不意に核心をつく質問に、どうしても歯切れが悪い答えになってしまう。
 尚人は、ふうんと気怠そうに相槌を打つと、
 「続けるってことが何よりも大事やで」と言う。
 「私のは趣味みたいなものだから」
 「そっか」
 尚人はプロだ。自分がやりたいことで成功していく為に、海まで渡ってしまった。
 志の違いに私は引け目を感じている。


 「ほんま? これ亜希が描いたん。バリ凄いやん」
 あれは、はじめてうちに尚人が来たときだから、もう二年前。
 私は遊び程度にイラストを描いていた。
 東京、パリ、バルセロナやニューヨーク。
 都市のビル群をモノクロで描き、夜空に眩いほどの星々を魅せる。
 実際にはあり得ない、空想の風景画だ。
 「もっと多くの人に見てもらったほうがええで」
 尚人に褒められると、確かにそうかもなと思えた。嬉しかった。
 それから描いたものをポツポツとインスタへ挙げるようになった。
 尚人にその事を言わなかったのは、自信がなかったのもあるし。見知らぬ人に己をさらけ出すことに怖さがあった。もし、批判されたら。大したことない絵のくせにって言われたら。
 それは自分が一番解ってる。改めて尚人はすごいなと思った。
 多くの人に見てもらって、いろんな意見を浴びて、だけど自分で咀嚼して、次の作品に活かそうとしている。それは私にもできるだろうか。

 はじめて数か月はフォロワーも数十人程度だった。
 絵を描くより、昼間に働いているカフェは同世代も多く、そっちで過ごす時間のほうが楽しくなっていた。元々は、尚人もそこによく休憩しに珈琲を飲みにくる常連で、ごく自然に挨拶を交わすようになり、ごく自然に連絡先を聞かれ、数回のデートを重ね私たちは付き合うことになった。
 『素敵な絵ですね』
 ある日イラスト用のアカウントにログインすると一件のダイレクトメッセージが届いていた。上月シオリと名乗る彼女は駆け出しのアートキュレーターで、自分の編集による小さな展覧会を開くから、そこに良ければ絵を二、三枚ほど貸してほしいと言った。
 光栄だった。こんなことがあるんだ、と思った。尚人の言う通りだ。見てもらうことで、新しい道が拓ける。それがどんなに小さくても、私にとっては大きな一歩だ。

 「尚人、聞いて。実はね」
 私のうちで夕飯を食べた後、テーブルを向かい合って尚人に切り出した。
 私の絵が展覧会に飾られる。喜んでくれるだろうか。いや、私は尚人に一緒に喜んでもらいたかった。
 尚人は俯いたまま、一点を見つめて難しい顔をしていた。
 「どうしたの? ビーフシチュー美味しくなかった?」
 いや、違うねん。一呼吸おいて彼は言った。
 「亜希、俺ニューヨークに行く。しばらく帰ってけえへん」
 ごめん、と尚人は頭を下げる。
 「言おう、言おうと思っててんけどな」
 「……行きたいんだ」
 「試したいねん。世界で一番大きなマーケットで、自分の写真が通用するのか」
 驚くより、寂しさより、やっぱりこの人はプロなんだと感じた。私とは違う。尚人の写真は、子供が被写体になることが多かった。時を止める魔法、だと初めて彼の写真を見たときに亜希は思った。子供の感情をそのままモノクロの写真に乗せてしまうのだ。原色の感情を。だから揺さぶられる、こちらの感情まで。
 「いってらっしゃい」
 尚人は帰ってこないかもしれないなと、二人の未来は終わってしまうかもと、思った。
 世界を相手にしている。さっきまで私の隣にいた彼が。隣同士で、同じものを見ていたはずなのに、どうしてこんなにも視える世界は違うのだろう。
 彼がレンズ越しに見ている景色に近づこうと思っても、やっぱりできなかった。
 そのうち私は、想像力でその才能を埋めようとした。
 見えてもいない星空を描くことで、きらきらにひかる空を描くことで、私は彼の隣にいたかった。

 尚人がニューヨークへ旅立ってから一年半ほどが経った。
 私は他に彼氏をつくるわけでもなく、かと言って彼の帰国を心待ちにしているわけでもなかった。先に進めないだけで、臆病な自分が嫌だった。
 彼はニューヨークに写真の仕事で行っている、と告げたときに得る、周りからの羨望に自分を見失いそうだった。
 私のインスタのフォロワー数は二万を超えた。尚人は千六百。それが何だ。
 『亜希さん、新作の評判凄いよ。めっちゃバズってる』
 まちの灯りを全て消して、幻想的に星空を浮かび上がらせた絵画たちは、現代の環境問題に一石を投じるアートとして、多くの人に支持されるようになった。
 作者である私に、そんな意図は全くなかったのに。
 シオリさんの働きかけもあって、私の絵は広告、ポスター、メディアなどでも少しずつ起用されるようになっていた。取り上げられる度、自分事なのにどこか客観的に見てしまう。

 「何かありました? 尚人さんと」
 気温が氷点下へ到達したある冬の帰り道、駿くんが聞いてきた。一メートル横の彼は、今日のまかない何でしたか、くらいのサラッとした感じで続けた。
 「もしかして、別れました?」
 「なんで!」
 反射的に声を張ってしまった。駿くんは目を丸くしている。
 「いや最近、亜希さん露骨に元気ないから、尚人さん関連かなって」
 「元気ないかな・・」
 「ないでしょ! それくらい分かるよ! おれ亜希さんのこと好きなんだから」
 言っちゃった、と駿くんは頭を掻きむしり、バサっとパーカーのフードを被る。
 それには応えない代わりに、
 「まだ別れてないから」と言う。
 まだ、なのか。私にもわからない。
 「じゃあね」
 いつもの分かれ道、不意に駿くんに手を握られた。
 「待って」
 「おれ、何もないっすけど。出来ること少ないかもしれないけど。亜希さんの隣にいられますから。ずっといられますから」
 一メートルの距離を彼は勇気を出して飛び越えてきた。
 でも、私には。
 曖昧に微笑んだまま、私はゆっくりと彼の手を離した。

 家に帰って、赤ワイン片手に成城石井で買った豚肉のパテをつまむ。
 束の間、尚人からビデオ電話がかかってきた。尚人からかけてくるのは珍しい。
 「もしもし」
 「・・おう」
 どうしたんだろう、機嫌が悪そうだった。
 東京とニューヨークの距離は一万八百四十キロメートル。
 尚人に歩いて会いに来てよって言ったら来るだろうか、冗談でも。一体何日かかるんだろう。
 「これ、亜希で合ってるやんな」
 彼はスマホで、私のインスタアカウントを表示させた。
 「そう、だね」
 ワインの酔いが急速に冷めていくのを感じる。
 いつかは来ると思っていた。多くの人に見てもらった私の絵は、こんがらがった糸の先に尚人の下へとたどり着いたのだ。
 「何で教えてくれんかったん?」
 何でって・・私が考えを巡らす前に尚人が声を挙げる。
 「俺のこと馬鹿にしとるん? 展覧会、ポスター、広告、何やねんフォロワー二万て。ずっと斜め上から見てたんやな。俺の理解者のふりして、蔑んでたんやな。仕事なくて可哀想って。考えられへん、ほんまがっかりやわ。最悪やな」
 言いたいことは肝心な時に何も出てこなかった。
 今は言葉だけが、この距離を越えられるのに。

 「あかん、別れよ」

 綺麗に頬へ涙が伝って私は泣いた。
 泣いて泣いて、しばらく泣いて、ペンを探した。激しい呼吸を繰り返しながらペンを握った。
 ただ絵を描き殴った。嗚咽しながら、空に明かりをきらきらと灯した。明かりなんて見えなかったから、見えているふりをした。この世界じゃないどこかに明かりはある。それが自分の救いになると信じていたかった。
 一万八百四十キロメートルも離れた人の事で、どうしてこんなに涙が出てくるんだろう。
 思考は距離を越える、だけど今は私の頭の中をぐるぐると回遊している。
 身体が、ふるまいを通じて、筆先が動き出す。
 感情の螺旋が、キャンパスを動き回る。
 消えてなくなりたい。
 私は、ひとりだ。
 ぶつける。キャンパスへからだごとぶつける。
 絵が、色彩が、徐々に輪郭を帯びてくる。
 私は何だ。
 大事なものは目に見えない。
 私は何だ。
 涙が滲んで目が見えない。
 描き上げた絵を、尚人はなんて言うだろうか。

 何時しか空は白んでいて今しがた描き上げた絵を、私は破り捨ててしまいたい衝動に駆られた。
 足元に転がるスマホが震える。
 インスタに一件のダイレクトメッセージが届いている。
 『はじめまして! 東京で大学生をしています真紀といいます。先日偶然、展覧会で亜希さんの絵をみて、私絵とかよく分からないんですけど、心がグワーってなって。すごいな、すごい絵だなと思いました。亜希さんの絵はどこかで売っていたりしますか? きっと手が届かないのかもしれませんが、バイトして貯めたお金が少しならあります笑』

 何だそれと、私は思った。
 頬が緩んで、また涙が零れる。温かい涙が、絵を濡らさないように私は上を向く。
 今描き上げたこの一枚を、彼女に贈ろう。
 心がグワーっだなんて、最高にまっすぐな言葉だ。
 そのまっすぐさに私も応えたい。
 返事を書こう。
 私は手を伸ばした。見えない糸はきっとそこにあって。
 懸命に手繰り寄せ、愛おしく抱きしめる。
 誰かの願いごと一つが間違いない。今ここにいる、私の明日を変えていく。

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