はじまりを告げるレインボウ
春
初心者でも簡単に育てられますよと言われて買った、ガジュマルを枯らした。ここ二三日は四月とは思えないほど寒く、降りしきる雨がそれに追い打ちをかけた。私は寒いのが苦手だ。ダウンコートを着た上から毛布にくるまると、何をするのも億劫になる。身体も心もひたすらに重い。
「何もかも、上手くいかないな」
一人暮らしの六畳間。そう声に出してみると、ますます何も上手くいかない気がして滅入った。窓越しに眺める灰色の空に舌打ちする。
『ピンポンッ』
玄関のインターフォンが鳴る。ネットで何か買ったっけ?
上京して約十年、学生時代から住み続けている部屋を訪ねるのは、宅配員くらいなものだ。
「はいー」
モニター越しに映っていたのは、若い男だった。アッシュ色にした髪は、ウルフカットで襟足が跳ねている。胸元がざっくり開いた白のTシャツに、モヘアの黒いカーディガンを羽織っている。シャープで整った眉に似合わないつぶらな瞳が、カメラをしっかりと捉えていた。
「となりに越してきた者ですが、ご挨拶に伺いました」
青年は律儀にペコリと会釈をする。
困ったなあ。私はぼさぼさの髪をゴムでまとめ、化粧気のない顔は眼鏡をかけて隠した。
ガチャリ。ドアから拳大ほどの隙間を開けると、青年と目が合った。
「あっ、こんにちは! となりに引っ越してきた新井零弥です。漢字のゼロに弥生時代の弥で、れいや。よろしくお願いします」
私があっけにとられていると、青年はさらに喋る。
「これつまらないものですが! 俺、大学に入って熊本から上京してきたんです」
そう言うと、新井青年は紙包みを私に差し出した。
勢いに乗せられて、受け取る。ずっしりと重たかった。『陣太鼓』の文字が光る。
どうも、ありがとう。数日人と話していないせいで、自分の声が擦れていて悲しくなった。
青年は小首を傾げている。
ああ、そうか。一呼吸置いて、私も名乗る。
「大越です」
「オオゴシさん」うんうんと彼は頷く。
「下の名前は何て言うんですか」
「え、ああ──。絹です。シルクの絹」
「絹さん。ありがとうございます。良い人そうでよかったっす」
ふとした語尾が『っす』だったのが若さを感じて微笑ましかった。
「ご両親に挨拶行けって言われたの」
ええ、まあと照れくさそうに彼は頭を掻く。
「最初が肝心。こっちから先に心を開けば、世の中そんなに悪いひとはいなか。なんて言うんですよ。田舎くさいっすよね」
じゃあ、と頭を下げて私たちはお互い部屋に戻った。
隣人に挨拶だなんて確かに珍しいな。彼の前に隣に住んでいた人とは面識はなかった。男なのか女なのか。そう考えると静かに暮らしていた人だったのか。ぼんやりと思う。東京で新井青年は無事にやっていけるだろうか。いやいや、それよりも自分の心配だなと思い直す。窓の外を見ると、いつのまにか雨は止んでいた。
おっ。
雨上がりの空に虹が掛かっていた。
夏
蝉の鳴き声がうるさい真夜中だった。私は食卓を兼ねているローテーブルにジーンズを広げ、リメイクを行っていた。太もも部分にアルファベットの刺繍を入れているところだった。ROCK。その最後のKがちょうど終わろうとしていた時。
「ダンダンッダァン」
大きくドアが叩かれる音に、私は身を固くした。
「ガチャガチャ、ダンダンダンッ」
え、何なに。えええ。うちのドアじゃ、ない? 落ち着いて聞くと、音はとなりの部屋から聞こえた。恐る恐る玄関のドアをそっと開いて外を窺う。新井青年がふらついた足取りで、ドアに半ば寄りかかっていた。
「なんで開かんのやあ」
酩酊した姿。酔っ払っている?
「新井くん、大丈夫」
彼と挨拶を交わしてから三か月ほど経っていた。隣同士でこんなにも会わないのは、もちろん私が家から出ないせいだろう。
「きぬさん。ああ、こんばんわですー」
彼は焦点の合っていない目で私を見ると片手を挙げた。
「だいぶ飲んでる?」
「それなりっす」
「というかあなた新入生じゃなかった?」
私の疑問に新井君はピースサインをつくる。いや、だめでしょ。
「にろーです」
「はい?」
「二浪です。だから今二十歳っす。まいっちゃいますよ。年下ばっかで、わかってましたけど。超アウェイで」
年上として場を盛り上げる為に飲み過ぎたみたいな事を彼は言い、やがて寝た。
「ちょっと、鍵は?」
「ここ」と指さした尻のポケットにはぱっくりと大きな穴が開いている。マジか。
うん。じゃあ、風邪引かないようにね。外は適度に涼しく、ほっておいても大丈夫だろう。幸い夏だし、OK。私は部屋に戻って作業を再開した。
クラッシュさせた膝に裏から赤いバンダナを当てて縫い付ける。没頭していて、ふいに時計へと視線をやると深夜一時を過ぎていた。
ふむ。重い腰をよっこらと上げて、再び玄関を開けた。新井零弥は、まだそこに転がっていた。私は彼に近寄って肩を揺さぶったり、頬をぺちぺちと叩いてみる。一向に起きる気配はない。ジロジロと全身を観察する。危険ではなさそうだ、おそらく。
ふーっと息を吐くと腹に力を込める。彼の両足首を持ち引きずった。数メートル先の私の家の玄関へ入ると段差をふんっと持ち上げて、奥の1LDKへと続く通路に彼を寝かせた。フローリングは痛そうだったのでバスタオルをかけてやった。1LDKの境になっている扉を閉める。一応張り紙をしておいた。『命が惜しければこの先開けるべからず、大越絹』傍らに水の入ったコップを置き、私は部屋に戻ってもう少し作業をする。眠気が訪れる朝方まで、私は毎晩ジーンズをリメイクし続けている。
差し込む陽の光と外の世界から聞こえる車の走行音で、私はうっすらと目を覚ました。
突っ伏す格好で眠りに入っていた。硬くなった体を、ゆっくりと横に倒す。心臓の音と渇いたのどが、心との厚い膜を通して、私はここにいるよと知らせてくれる。
デジタル時計が十時半を示していた。新井青年はどうしただろう。眼鏡をかけ、這うようにして扉に耳を付ける。気配はない。そおっと開けると、バスタオルは綺麗にたたまれていて、その上に「ありがとうございます! このご恩は必ず返します。新井零弥」とレシートの裏面に書かれていた伝言があった。跳ねや止めがしっかりしていて、気持ちの良い、凛とした字だった。
秋
私は、季節感のないグレーのスウェットを洗濯にかけ、室内に干した。春、秋、冬。一年の四分の三は稼働する万能選手。窓を開けると、風に乗って雨粒とほのかな金木犀の香りが室内に入ってきた。一日中降りそうだな。観念してすぐに窓を閉める。
はじめて東京に出てきた二十歳の頃、私の周りには『はじめて』が溢れていて、私は東京での暮らしに夢中になった。モノは今以上に何も持っていなかった。グレーのスウェットは、ディスカウントストアで上下、九百八十円だった。くったくたになって、もう捨ててしまえばいいのに。お世辞にも柔らかいとは言えない、ごわごわした肌触りが訳もなく私を安心させている。まるで幼児みたいだった。
雨の音が部屋を満たす。私は暗い湖の底にいる。
床に転がっているスマホを手に取った。
「もう帰ってきたら」
と言う、母からのメッセージには既読を付けたまま返信できていない。
生活はいつだって昨日の続きのはずなのに。どうしてこうも間違えてしまったんだろう。
何もない部屋からはじめて、モノは増えた。ぐるりと部屋を見回す。綺麗なまま並べられたセットの食器。二回しか使っていないマグカップ。大きすぎるテレビ。カーキのソファはすっかり脱いだ洋服置きになっている。
物と思い出は増えたのに全然豊かじゃなかった。失ったものを秤にかける。
記憶している身体も心もやっぱり重たいや。
コロナ禍になって派遣で販売職をやっていた私は休業になり、しばらくして人件費削減の為に解雇された。覚えた接客用語やスマイルは、全然私を守ってくれなかった。
私の代わりは何処にもいないという理想と、私の代わりが無限にいる現実の社会が、戦って、戦って、私は負けた。自分を守る、それだけのために部屋にこもった。
『ピンポンッ』
インタフォンが鳴る。
──はあい。
ドアを開ける。
宅配便だった。
何となく新井青年が来た気がしたけど、違った。悲しかった。
冬
仕事を失った翌週、恋人も失った。
「仕事を頑張っている絹が好きだった」と彼に言われた。
東京。私は孤独だった。どこまでも届くと思っていた上京時の希望は何処へ行ってしまったのだろう。私は二十七だった。夢を見られるほど若くはなかったし、全てを諦めることができるほど大人にもなれなかった。
『ピンポンッ』
ジーンズをリメイクしている時、私は私でいられた。
動かす手で、輪郭をなぞるように、完成へと向かっていく。
お金がなかったから、ほつれたジーンズを縫い直してみようと思ったのがきっかけだった。没頭することは不安から解放してくれる。もっと上手になりたい。動画や本をみて、勉強した。
料理好きが全員料理人になるわけではない、という理屈と同じように、私は自宅でジーンズを素人として縫い直している。リユース、ユーズドなんて埋もれるほどある。片っぱしから縫って生涯を終える、そんな妄想をして時間をやり過ごしても、腹が減る。正午を回った頃だった。
「私の人生終わってんな」
『ピンポンッ』
『ピンポピンポピッポッ』
連打されるチャイム。私は呼ばれていると確かに感じた。
玄関を開けたら、新井青年が立っていた。
「やっぱり、いた」
彼は笑う。
「何か、用」
「こないだの御礼に」
ああ──。あの夏の夜からしばらく経っていた。
「バイト先がイタリアンなんすけど。めっちゃ美味いんで、良かったら絹さんも来ませんか?」
「検討しておくよ」
「この後予約取ってて」
「えっ、今から?」
「準備とかいりますよね。それは全然OKっすから」
私は全然OKじゃないんですが。えーと、どう断ろうか。
「サプライズ的なもので、店長にお願いしてケーキ作ってもらってるんすよ」
「サプライズの意味知ってる?」
無茶苦茶な訪問者だ。
「あっ、やっと笑った」
新井青年が顔をほころばせる。
「もしかして最近ケーキ食べました?」
「いや」
最後に食べたのはいつだったのか、思い出せない。でも何でケーキ。
「何で。いや、うーん。ちなみに何のケーキ?」
「決まってるじゃないですか」
「決まってるんだ」
「ガトーショコラですよ」
「ほう」
「女性はチョコレートもケーキも好きだからって。熊本のじいちゃんがよう言ってたんですよ」
季節は冬になっていた。私は寒いのが苦手だ。
キリリと冷えた空の下、私は新井青年と歩いた。
久しぶりに出た外のまちは、眩しかった。
一瞬の閃光のように視界を通り過ぎていく、街並み、人間、車、猫。
それらが次々に脳内の短期記憶に詰め込まれていく。
あまりの情報量と太陽光に立ちくらんだ。
「大丈夫ですか」
新井青年はリュックからサングラスを取り出すと私に、かけて、と促した。
「はじめて、絹さんに会った日の帰り。虹を見たんですよ」
ああ。私も覚えている。新井青年もあの虹を見ていたんだ。
「東京でも虹が掛かるんやなあ、って。当たり前ですけど。嬉しくて」
「なんか分かるよ」
新井青年は私の斜め前を歩く。一緒に歩くにはちょうどいい歩幅だった。
私は寒いのが苦手だ。
でも、ガトーショコラは好きだった。それも相当に。
頑なになっていた自分を外に連れ出すには、そんな理由で良かったのかもしれない。それくらいがちょうどよかったのかもしれない。何でもいい。彼のおかげだった。
吐く息が白く、宙に舞っていく。
東京。私は孤独の続きにいる。
だけど、この街に落ちている幾千万の出会いのかけらが、ほつれた心を縫い直していく。そんな妄想をする。
からだはこの道の先に待っている、サプライズを楽しみにしていた。
分断された、私と社会。新しい生活はたった扉一枚の先に人一人との出会いの先に。
サングラス越し。フィルター。視界。
見たことない、新しい世界。大地を踏む足。
冷え切った空気に凍える肌。
続いていた。
扉の外。明日はここから続いていく。
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