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我慢・強がり・見えない生きづらさ #私なりの生きづらさ論

※こちら深夜の連投ツイートをまとめたものです。

強がりをとっぱらい、言動の奥の願望を知る必要がある話。

不登校について語る時に、「行きたいけど行けない」「行かないから行かない」って子ども達がいるという話をする。

また、「行きたかったけど、諦めて行かない選択をした」子も含まれて、全てが別物であるとも話をする。

これはどんな言動でも言える話で、例えば人を頼ることだったり、助けを求めることだったりでも同じことがいえる。

例えば、「人に頼ることができるが、頼らない。」と「人に頼ることができないから、頼れない。」は

同じ「頼らない」という行動でも、選択できるか否かという理由で、別物であることがわかる。

「人に頼りたかったけど、頼れずに諦めた末に頼らない。」もまた別物であるが、

一見、「頼らない」という選択が出来たように思えてしまう。

しかし本音を覗いてみると、選択が出来ていないかつ、「頼りたい」という願望が達成できていないことがわかる。

そこの願望にたどり着くまでには、何故「諦めたのか」を知る必要があり、
願望を押し通す時に何かによって折られた経験をしていること、折られた経験により我慢や強がりという障壁があることを知る必要がある。

まずは、我慢や強がりをとっぱらい、本音を知ることが問題を解決する上で、大切なヒントだと思う。

結局何が言いたいかと言うと、言動だけに着目をすると「頼らなかった」と言う事実しか残らない。

また、その言動に至るまでの選択を振り返ったとしても、当人の願望の通りであったのかは分からないこともある。

振り返るべきは、「言動」であり、「選択するまでの経緯」であり、「当人の在りたい姿」という願望までなのでは無いかというお話。

この考えに至った経緯のお話。

私自身も生きづらさを抱えながら生きている当事者として、どうして私は生きづらいんだろう?と考えることがあるのですが、

私の生きづらさは、自分の想いや感情、願望を知ることが出来なかったに集約されると思っています。

自他ともに理解をしている事実ではありますが、私は生まれてきてから何度も「あなたは恵まれている」という評価をくだされてきました。

それは社会を俯瞰して眺めていたらわかる事実でもあり、
幼いながらに「恵まれているからこそ、ある程度の負は我慢しなければならない」と思うようになりました。

本当に感じている生きづらさや、在りたい姿、周りにして欲しかったことなどを、内側で押し潰して、秘め続けるようになりました。

人間誰しもが、少なからず「こういう人間でありたい」「在りたい姿はこうである」という願望があり、それを達成できないことは負にあたります。

となると、負を解消したいと願い、在りたい姿で生きたいと願うことは至極真っ当なことなのです。

しかし、「あなたは恵まれているのに他に何を願うの?」「もっと苦しい思いをしてる人がいるんだよ」と諭されれば、

ある程度の優しい心を持った人なら「我慢しなければならないんだ」「願うことすらも申し訳ないんだ」と思ってしまうこともおかしくないわけです。

でも、我慢しなければならない負や願望ってなんなのでしょう?

そこに生きる意味や価値、生きづらさを抱えた負であるのなら、それを潰さなくてはならないなんておかしいと思いませんか?

それでも当たり前のように、生きづらさや生きていく中で増えていく負を我慢し、押し潰して生きていく人が多いからこそ、生きづらい世の中なのではないでしょうか?

ここまで読んだ人はこう思うのではないでしょうか?
「え、我慢しなければ良くない?」

その通りなんです。
生きづらさに大小なんかないし、大小で決め付けられたところで相手の判断でしかないので、我慢なんて必要ないんです。

でも我慢し続けた人は、何度も自分の負を解消したいという願いを何かによって折られ続けてきたということを忘れてはいけません。

何度も否定されて、折られ続ければ、諦めてしまった方が、我慢をした方が楽だ、という決断に至ってしまうのです。

しかし我慢をするにもキャパはあります。
自分の心の痛覚を麻痺させない限りは、キャパを超えると助けを求めざるを得なくなります。

いざ助けを求めようとしても、自分の想いや願望を伝えることを知らないから出来ないのです。

何故なら、想いや願望を我慢すること、押し潰すこと、体裁を守ることだけを学び実行し続けたことにより、

本来、重要であるはずの想いや願望を伝えることや助けを求めること等のコミュニケーション方法や、人との関わり方を知らないのです。

強がることしかできない、我慢することしか分からない。だから助けを求められない。

「頼らなかった」という事実の裏には、「頼れない」という選択しか出来ない事実があるが、それを隠すための我慢や強がりが立派過ぎてしまう。

そんなこともあるのです。

だから生きづらさの緩和、解消(問題解決)をする上で、
言動だけではなく、その裏の選択した経緯、もっとその先に、当人が在りたい姿であったのかを探りを入れて考えることが重要だと思うのです。

あとがき

私が生きづらさ緩和や自死予防を考えるうえで、想いや願望を知って伝えることを大切にしていることには、このような想いや経験があります。

心が弱い人だから、生きづらさを抱えたり、自死を考えるわけではなく、もっと誰しもが経験しうるような根本的な理由によって、悲劇や苦しみが生まれているのです。

助けを求められるようにしよう、支援者へ繋がれるようにしよう。

その前に何故生きづらさを抱えているのか、なぜ苦しいのか、どう在りたいのかを知って、伝えられるようにしよう。

助けてもらうために。救われるために。

これが私の課題であり、私が考える生きづらさの解消方法です。

今はまだ自分のこと、周りのことだけで手一杯な生きづらさ当事者ですが、
いつかは同じように苦しみ、強がりの裏で助けを求めている人に手を差し伸べられるような大人になりたいです。

それでは、をば!

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