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メンタルが崩れそうになったときに出会った『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

長い休職のそもそものきっかけは管理職への昇格でした。折悪しく課長が退職し、その分の仕事が「もう管理職なのだから」と部長からどんどん回ってきました。未経験で取り掛かり方が不明な仕事も山積み。人手が足りない分は外部ベンダーを使うよう言われましたが、その指示の仕方もわからず雪だるま式に仕事が増えていきました。

夜もよく眠れなくなり、日中仕事をしていても頭がチカチカして、思わず「私ちょっとおかしくなってしまいそうな気がします」と部長に漏らしたこともあります。これは限界だと、会社が契約しているオンラインカウンセリングに相談し精神科クリニックを紹介してもらいました。

そこは会社からほど近い高名なクリニックでした。薄暗い待合室で順番を待っていると、どこからか人の叫び声が聞こえてきます。それを聞いているうちに「私の体調なんてこの人たちに比べたら大したことがない」と思えてきました。診察の順番が回ってきましたが、「…と、体調が悪くて夜もよく眠れませんが何とかなるように思います、大丈夫です」と自分で結論をつけ、薬の処方も再診の予約も無くそのまま病院を後にしました。

会社に戻ると、その日不在だった部長に代わって役員達のプレゼンリハーサルに立ち会うように言われました。そんな上層部の会議に下っ端の私が参加して、機密情報を聞くことも許容されたのにただ黙っていたら存在意義が問われます。そう思って必死でコメントをすると「いや~、千田はズバズバ言うなあ」と営業部長に笑われました。いえ私、おかしくなる寸前なんですが。内面と態度がバラバラに乖離していました。

まさに進退窮まった時に手にしたのが村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』です。私は村上春樹の小説はすべて読んでいる程度のファンですが、新刊が出たからといってすぐに手には取りません。「時が来た」と感じて初めて読むのです。今がその時でした。

ある日突然親友たちから別れを告げられた主人公と私の境遇は違うものでしたが、彼の心象風景は当時の私そのものでした。

「どう言えばいいんだろう、まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」(中略)

「誰かに突き落とされたのか、それとも自分で勝手に落ちたのか、そのへんの事情はわからない。でもとにかく船は進み続け、僕は暗く冷たい水の中から、デッキの明かりがどんどん遠ざかっていくのを眺めている。船上の誰も船客も船員も、僕が海に落ちたことを知らない。まわりにはつかまるものもない。そのときの恐怖心を僕は今でも持ち続けている。自分の存在がだしぬけに否定され、身に覚えもないまま、一人で夜の海に放りだされることに対する怯えだよ。(後略)」

村上春樹が世界中の人たちに支持される理由がわかる気がします。たとえ状況が異なっていても「そう、私もそう感じていた」、「こんな風に思っていたのは私だけじゃなかったんだ」と通じ合えるような描写が巧みに出てくるのです。そして、そこにはささやかな希望も描かれます。

「僕のことはもう気にしなくてもいい」とつくるは言った。「僕はなんとかそのいちばん危ない時期を乗り越えた。夜の海を一人で泳ぎ切ることもできた。僕らはそれぞれ力を尽くして、それぞれの人生を生き延びてきた。」

そうか、私は今、夜の海に放り出されているような状態なんだ。もがいていたら沈んでしまう。ここはひとつ落ち着いて、なんとか海を泳いでいこう。泳ぎ切ることもできるんだ…そんな風に思えてきたある日、私は海の底から水上に蹴上がるイメージが浮かび、精神的な落ち込みもどん底を脱しました。慣れない業務も納品にこぎつけました。

それでハッピーエンド?あいにくことはそう上手くは運びません。部長からのボディーブローが効いてへばっているところに新しく着任した課長のストレートが決まり、結局私は休職しました。産業医に紹介されて新たに訪れたクリニックは休職中の会社員が多く落ち着いた雰囲気で、最初からここに来れば良かったと思うことしきりでした。

主治医からは「少なくとも、もう駄目だと思ってから休職までにかかった時間は休む必要がある」と言われました。私の場合は半年。当初はそんなに休まなきゃいけないの? と驚きましたが、実際は1年以上休職したので主治医の言うことは正しかったのです。

ですから私は、やはり「もう駄目だ」と思ったら速やかに受診することをお勧めします。合わない病院に行ってしまったら別の病院に行ったらいいのです。けれどもそれはそれとして、『多崎つくる』にすがってやり抜いた日々を私は決して忘れはしません。この本には感謝してもしきれないのです。

#昇格 #うつ #過労 #休職 #メンタル #村上春樹 #多崎つくる #双極性障害 #ビジネス



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