見出し画像

悪いかどうかを子ども自身に判断させる理由 事件簿⑧

「悪いことしちゃったなと思う人は起立。」
これは、子どもに二つのことをさせる言葉だ。まず、自分の行いに悪い点があったかどうか考えさせる。次に、立つかどうかを子ども自身に判断させる。その二つをさせている。

では、実際にそれをさせるとどうなるかをご覧ください。

(「事件」の全容はこちら。『ドアを開けたら乱闘事件?事件簿①』)

あれ?と、思う子が立ったり立たなかったりしますが、本人がそうしているのですから、教師は立ったり座ったりを促すことはしません。

教師が「あれ?」と思うのは自分の予想と違うからだ。
なんで立つの?(悪いことをしてないよ。)
なんで立たないの?(悪いことをしたよ。)
そういう違和感が生じるからだ。

その違和感を正そうとして、その子に次のように言いたくなる。
「座りなさい。(悪いことをしてないよ。)」
「立ちなさい。(悪いことをしたよ。)」

実際、次のような質問を受けたことがある。
「立つべきなのに立たない子はどうするんですか? 見逃すんですか?」
教師は間違いを見逃してはいけない。そういう正義感からの言葉と思う。しかし、この「正義感」に私は疑問をもっている。

下の図を見て欲しい。

先の質問者が「立つべきなのに立たない子」と見ているのは、一部の②と④の子どもだ。「悪くない思う(気づいてない)」から立たない子(②)、「悪いと思う」けど立たない子(④)だ。
そういう②④の子を「立たせないんですか?」という意味で「見逃すんですか?」を質問したのだろう。
重要な質問だ。だから、ハッキリ答えよう。

立たせない。教師が立ったり座ったりを促すことはしない。

理由を説明する。
「悪いことしちゃったなと思う人は起立。」という言葉は、子どもに考えさせて判断させるための言葉だ。教師が立つ立たないを指示しては、子どもに判断させた意味が無くなる。
立つと判断した子どもの話を聞けなくなる。立たないと判断した子どもが見えなくなる。

それだけではない。
②④の子を立たせても無駄だ。指導できない。
「悪くないと思う」子(②)は「立ちなさい(悪い)」と言われても納得できない。「悪いと思う」けど立たない子(④)は悩んでいたはずだから急に言われても戸惑う。どちらにしても子どもは「立ちなさい」の言葉に拒否反応を示す。

もしも「立つべきなのに立たない子(②④)」がいたなら、それは何かしらの事情で、今はまだ気づけない状態、今はまだ立てない状態だと理解する。立たせようとしない。

そして、「悪いと思う」から立っている子(③)に対応する。立っている子(③)の話を聞く。

立って話をした子、その話を聞いた子が納得できればいい。そこにいた子ども達が、話してよかった、聞いてよかったと思えるようにする。
そうすれば、「今はまだ」だった子(②④)も徐々に変わる。立って話をする子(③)を見ているうちに、②④の子も次第に気づくようになる。みんなの前で立つこと話すことへの不安が減る。「自分も立って話せたらいいな」と思い始める。

「今」立っている子(③)は、「今はまだ」立てないでいる子(②④)がこれから成長するための大事なモデルでもある。

だから③の子から対応する。これは指導の順番だ。
つまり、立っていない子(②④)を見逃したのではない。「立つべきなのに立たない子(②④)」は、時間をかけて見守る必要がある子だ。だから、「今」急いで立たせることはしない。(注1)
学級は、そういう様々な状態の子どもの集団でできている。
だから、次のように言った。

あれ?と、思う子が立ったり立たなかったりしますが、本人がそうしているのですから、教師は立ったり座ったりを促すことはしません。

ここで紹介したい子がいる。みかんちゃんだ。
みかんちゃんは、この乱闘事件があった日の中休みに教室に戻ってきた。

こんなやりとりの後、みかんちゃんは、校庭に出ていった。(注2)

私にも、子どもが何を考えているのかは分からない。
でも、みかんちゃんのように、私が気づかない所で、自分が気になった何かを考えている子がいると思う。
もしも「あの時……すればよかった」と考えていたなら「次は……したい」と自分に言い聞かせているに違いない。それで十分だと思うし、その時を見守りたいと思う。

「悪いことしちゃったなと思う人は起立。」

これは自分で考えて判断(行動)することを子どもに求めた言葉だ。立つか立たないかは子ども自身が決める。教師が判断してはいけない。それでは子どもが成長できない。同様のことが、日々のいろいろな場面で起きているに違いない。


(注1)
実際、最後に「他に言いたいことある人、いるかな?」と聞いた時点で「僕も悪かった」と発言する子がいる。「なんだ。叱られるんじゃないのか」と安心したのかもしれないし、「こんなふうに謝ればいいのか」と思ったのかもしれない。何にしても、自分の悪さを認めることができなかった子が認めることができたなら大きな一歩だと思う。
集団でも個人でも「どこに注目してどこから指導を始めるか。どこを最後にするか」は同じ原理が働いていると思う。
関連する記事として次の二つがあります。お読み頂ければ幸いです。


(注2)
実は、後日、私はこの応答を反省した。もしかしたら、みかんちゃんは「みんなに」ではなくて「ももちゃん」に伝えたかったのかもしれない。2人は同じ幼稚園から来た仲良しだった。みかんちゃんは、ももちゃんを加勢できなかった自分を気にしていたのかもしれない。もちろん、その後も2人はとても仲良しだった。

この記事が参加している募集

オープン学級通信

子どもに教えられたこと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?