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痛快なバディムービーなんかじゃなかった──映画「最強のふたり」評──│ひとりアドベントカレンダー#23

※このnoteは、映画「最強のふたり」の内容にかなり踏み込んでいます。未見なのでネタバレを避けたい!という人は、また今度いらしてください。

ことし5月、遅まきながら映画『最強のふたり』(2011年・フランス)を映像系サブスクで鑑賞した。

パラグライダーの事故で首から下が麻痺してしまった富豪の男と、介護役として男に雇われた刑務所を出たばかりの黒人青年の交流を、笑いと涙を交えて描く実話がもとのドラマ。まったく共通点のない2人は衝突しあいながらも、やがて互いを受け入れ、友情を育んでいく。2011年・第24回東京国際映画祭で東京サクラグランプリ(最優秀作品賞)と最優秀男優賞をダブル受賞した。(映画.comより)


各種映画情報サイトを見ていると、主に「障害の有無や互いの違いをを超えて、対等な人間同士として友情をはぐくんでいく二人の絆が素晴らしい」という旨の称賛コメントが多いようだ。私もそれを前知識として入れて、期待しながら観てみたところ、困惑した。


「これって本当に……"いい話"なのか……?」


鑑賞後、素人なりにモヤモヤした点をそのまんま、結構な分量の下書きとして保存していた。それ以来、「いやこれはちょっと色々不備がありそうだし、もうちょっと冷静になって考え直したほうがいいんでは……」「でもこの考えを表明することに一定の意義はあるだろう……」と逡巡を繰り返してたら年末になってしまった。だいたい8ヶ月くらい下書きを熟成していたことになる。

この際だし、どうにか読みやすいように整えて、出してみようと思う。


ドリスとフィリップは「まったく共通点のない2人」なのか

「最強のふたり」のダブル主人公といえる、刑務所上がりの青年ドリスと、ドリスが介護する大富豪の老人フィリップについて、映画内の描写やせりふからわかることを比較表にまとめてみると、以下のようになる。

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これだけのはっきりした(非常にステレオタイプだが)差異ばかりで、まったく共通点のない2人が、互いの違いを乗り越えて友情を築くなんて素晴らしいでしょう、というのがこの映画のセールスポイント(と少なくとも日本語圏のメディアではとらえられている)らしい。


しかし、私は、このふたりを「まったく共通点のない2人」だとは思わない。

むしろ、このふたりは、「シスジェンダーかつストレート(異性愛者)の男性」という唯一の共通点においてこそ、“仲良く”なっていくのである。

そして、この構造こそが、映画「最強のふたり」から感じたモヤモヤを言語化するための肝だと思っている。


ホモソーシャルとホモフォビアによって担保される「友情」

もちろん、刑務所上がりで介護の経験もないドリスが、麻痺して触覚を失ったフィリップの脚に熱湯をかけて「ほんとに熱くないのか」と驚いて見せるような手荒なまねをして、フィリップが「これまでの介護者は自分を腫れ物に触るようにして扱ってきたが、こいつは一味違うな」と好感をもつようになる、という、ある種"対等"な関係性の描写を否定しているわけではない。(必ずしも素直に笑えるシーンではないけど。)

しかし、フィリップとドリスが、お互いの奥深くにある感情をさらけ出し合い、自分自身のことを語りだすのは、ある夜、発作に苦しむフィリップをドリスが散歩に連れ出した出先で、恋愛ひいては性愛の話になってからだ。

いや、ここまではまだ私のもやもやの本丸ではない。恋愛とか性愛は一人一人の個別性が高く、個々人の人となりが色濃く出るので、“対等”な相互理解に資することもあるだろう。

問題はここからだ

二人が「友情」を深めていく過程として印象的に描かれているのは、ただの恋バナのシェアの場面ではなく、女性のセックスワーカーを買う、という行為を二人一緒に体験する場面である。

つまり、二人のほぼ唯一の共通点と言える「シスジェンダー×ストレート男性」だからできることを、二人の秘密として共有するのである。


もう少し解像度を上げてみよう。二人が共有する暗黙の同意は、

“僕たちは、女性を性愛の対象として見て、さらには、自分の性欲を満たすためのモノとして金銭で買ったり、所有したりできる仲間だよね”

というものである。この"仲間"意識はそのまま、ホモソーシャルと言い換えられる。 

さらに、この同意には、

(1)女性セックスワーカーを買うこともあるし
(2)女性を恋愛/性愛の対象として自分のものにすることもある
(3)ただし、男性である互いを恋愛/性愛の対象として見ることはない

という3つの含意が、いっしょくたになっていると思われる。(1)(2)がホモソーシャルなら、(3)はホモフォビア(同性愛嫌悪)に近い。

(3)はどちらかというとこの映画の作り手側の意識だと思う。この映画の最後に、「この映画のドリスとフィリップのモデルとなった実在の二人の男性は、それぞれ女性と結婚して幸せに暮らしました」という旨のテロップが出る。

こういうエクスキューズをわざわざ出すということは、つまり、

“ドリスとフィリップは互いに身体的にも心理的にも接する機会が多く、親しみをもち合う仲となるのだが、そのようにして形成される二人の関係性はあくまで"男性どうしの友情"であって、恋愛感情ではありません。なぜなら、二人は異性愛欲求をもつ男性どうしの仲間であるから。だから、男性同士の純粋な友情物語として安心して見てくださいね”

という作り手の意識がにじみ出ているといえないだろうか?(ここまで解像度上げて書くとなかなかグロテスクだな……)

ホモソーシャルとホモフォビアについては、パレットークのnoteがとても易しくクリアに解説していたので、引用してみる。

こういう感覚の男って結構いない?
男たるもの!
・女好き!
・女遊びがうまい!
・裸のつきあい!
・男の友情!
これができてこその一流!みたいな
ホモソーシャルは、「こういう価値観を共有して男同士の仲間意識を深めよう!」って空気を指すことが多いんだ
―――上記記事の漫画のせりふより
そして、こうした"男らしい"あり方から外れると、途端に「男として一人前じゃない」というレッテルを貼られてしまったり、「同性愛者ではないか?」と言われたり…。そう、このような形でもホモフォビアは発動している。
――上記記事本文より

このように、ホモソーシャルとホモフォビアの説明がそのまま、ドリスとフィリップの「絆」の説明にあてはまる。


ミソジニー(女性蔑視)も加わって厄介なことに

それでもなお、「いやいや、そうはいってもドリスは、自分とは違う人間を偏見なく扱い、純粋に面白がるピュアな人物なんじゃないの?」と言う人ももちろんいると思う。でも、実際はもうちょっとややこしい。

今度は、ドリスの、ある女性登場人物に対する接し方を見てみよう。

ドリスは、フィリップの秘書の女性・マガリが自分の好みの女性と見てとるや、無遠慮に性的な言動を繰り出し、あわよくば自分のものにしようとする。

これを「ドリスはただの女好きのお調子者」と笑うことも可能かもしれないが、先ほどまでのホモソーシャル&ホモフォビアの前提があるので、ドリスの価値観の根底にはミソジニーも地続きで入ってそうだな……と容易に想像がついてしまう。

再び、上記で引用したパレットークの文章に登場していただこう。

ここでポイントとなるのは、ホモソーシャルな関係性を結ぶために
・ミソジニー(女性蔑視)
・ホモフォビア(同性愛嫌悪)
が発動してしまうということ。

上にあげた例から、"男らしさ"という言葉で表される男性像が、「性的欲求を持つ異性愛者」であることがわかるだろう。また基本的に、女性は男性より劣った存在という価値観がある。だからこそ「一般的に"女性のもの"とされるものを好む男性は劣った男性だ」と評価されてしまうのだ。さらに「そんな女性を性的に消費することはいいことである」というのも、ミソジニーの発露と言える。

劇中には、もう一つ印象的な場面がある。物語の終盤、マガリが「女性パートナーと同居することになった」と言う。それを聞いたドリスは、とたんにマガリへの興味をなくす。

自分が異性愛の対象として所有できる可能性がない女性と知るや、ドリスにとってマガリは価値のない女になるといえるだろう。

こうやって、相手が自分にとって都合のいい属性かどうかによって接し方をはっきり変えるあたり、別にドリスは必ずしも「自分とは異なる相手をいつも対等に扱うピュアなやつ」とは言えなくなってくる。うーん厄介だ。


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ということで、『最強のふたり』の二人の関係性の構造を、ジェンダー/セクシュアリティの観点から私が素人なりに考えたらこんな感じになった。

最後に、私がこの映画をひととおり見終わった後に感じたモヤモヤのポイントを、2つにまとめる。


モヤモヤのポイント①「何もかも違う男性どうし」は、ホモソーシャルとホモフォビアによってしか仲良くなれないのか?

これは、ここまで書いてきたとおり。ホモソーシャル×ホモフォビア×ミソジニーのかけ合わせで成立する友情って、こんにち「いい話」として見られるのかな……? 倫理的にあんまり受け入れられなくなっていくんじゃないか……?というモヤモヤ。

もちろん、そのようにして現実に成立している男性どうしの関係性を真っ向から否定することはしない。その代わり、フィクションなら、物語なら、男性どうしの関係性のもっと異なる可能性を見せてくれてもいいんじゃないかな……?と思ったりする。いやまあこういう話ですって言われたらそれまでなんだけど、やっぱモヤモヤする……うまく言えないけど……

モヤモヤのポイント②「最強のふたり」はどんなふたりでも成立するのか?

この話のダブル主人公が例えば「健常者×シスジェンダー×ゲイ男性」と「身体障害者×シスジェンダー×ストレート男性」だったら全然違う話になっていたと思うし、どちらかが女性とか、どちらかがゲイ男性とか、どちらかがトランスジェンダーとかだったら、やっぱり違う描かれ方をしていたと思う。

真に「対等」なふたりを描きたいと思ったとき、どのようなふたりでもそれは可能なのか? (今のところ、勢いよく「YES」を言える人ってそうそういないんじゃいかな……)

そもそも邦題が「最強のふたり」だからなおさらこういうモヤモヤに至るわけであって、原題(フランス語)「Antouchables」だったらもうちょっと違う感じの思考になっていたかもしれない。

さいごに(おすすめ書籍紹介)

北村紗衣さんによる『お砂糖とスパイスと爆発的な何か―不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』、おすすめです。

著名な小説・演劇・映画などをジェンダー/セクシュアリティの描写に注目して読み解き、「こういう切り口があったのか……!」「たしかに言われてみればこういう構造で書かれている……!」という驚きに至る過程を、筆者の鮮やかで歯切れのいい批評文で追体験できる。

たしか私も『最強のふたり』を見るちょっと前に本書を読んで、目から鱗が落ちまくったので、かなり影響されたと思う。というか、本書を読んでなかったらこのnoteは書いてない。

ということで、自分の無意識の偏見をぶち破って新しい視点を手に入れる読書、年末年始にいかがでしょうか。映画評のはずなのにおすすめ書籍紹介で終わる、しまりのない感じで。今日はこのへんで。

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