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シカ・アナタ・大谷翔平。思想の愉快

 思想とは、なんと愉快な概念なのでしょう。
 当人すら(だからこそ)知らず知らずのうちに支配されている偏見。物事を考える際に陥りがちな思考上の癖。本人は認識できていないけれど、周りから見れば、やはり束縛されている。他人をメタの視点で見られるから、思想は面白いのです。

 他人が思想から支配されているのを眺めるのは愉快痛快です。
 「アナタには自覚がないでしょうが、実際、こうなっていますよ」と見抜く快感。本人が「自明だ」と述べているものを、「自明でない」と言い返す。自明でないことを証明する。本人が「当たり前だ」と前提にしているものを、「アナタに特有の偏見ですよ」と異議を唱える。反論の愉悦。反論は、相手が権威を持っている者であれば、なおさら喜びを感じます。

 私たちにとって「ナチュラル」に映るのは、とりあえず私たちの時代、私たちの棲む地域、私たちの属する社会集団に固有の「民族誌的偏見」にすぎないのです。

内田樹「寝ながら学べる構造主義」

 権威を持つ者が支配されている思想。それを暴く例を「文章読本さん江」に見てみましょう。

1.「文章読本さん江」というメタ文章読本

 「文章読本さん江」は斎藤美奈子氏による、文章読本つまり文章の書き方指南書への皮肉をつづった本です。文章の書き方・文章の上達方法という類の本を、メタの視点から遠回しに酷評するという内容。

 文章の書き方指南書は世の中にごまんと出版されており、そのどれにも、著者(彼ら)自らの「自分は文章においてエリートだ」という自慢が見て取れます。それは、どの文章読本の挨拶文もご機嫌な調子で語られていることから推測されるのです。

「私ごときが文章読本を書くのは僭越この上ない」という謙遜。
「若い諸君の文章力が低下しているとき聞く」という慨嘆。
「既存の文章読本のほとんどは役立たずの駄文である」という義憤。

 彼らにとって文章読本を執筆するというのは、晴れ晴れしい気持ちのする、自慢したいほど名誉あることなのです。

 上機嫌になるのも道理であろう。若いもんをワシが矯正してやるという発想ほど、人間を上機嫌にさせるものはない。

 行間にただよう不機嫌さ(の皮あをかぶった機嫌のよさ)、まったくどいつもこいつも……とでもいいたげな息づかいを鑑賞してもらいたい。

斎藤美奈子「文章読本さん江」

2.その程度の人間なのだ。暴かれる彼らのイズム。

 「文章読本さん江」には、文章読本に共通する書き方上達方法、文章読本で書き方を学ぼうとする人の特徴など、いくつかの皮肉が書かれています。そのうち、思想を暴くという意味で最も顕著な例を取り上げます。それが、第二章第二項の「階層を生む装置」。文章読本著者である「彼ら」が支配されているヒエラルキーを暴き、それによって彼らの主張の矛盾を指摘するという、意地悪な内容になっています。

 斎藤氏は、文章読本を読んでいて思う、ある疑問について指摘します。それは「名文とは何か」というもの。彼らは文章上達法の中で、「名文」という言葉を頻繁に使います。「文章上達には名文をたくさん読むことだ」「名文を読むことで、自分の中に文章の蓄積が生まれる」「その蓄積が、自分が文章を書くときに役立つ」と。けれど、名文とは何かが明らかにされていない。名文として古今東西の文学作品を例示はすれども、それらに一切の共通点はない。であれば、名文とは何なのでしょうか。単に好き嫌いの基準だけなのでしょうか。自分が面白いと思えば、それは参考にするに値する名文になるのでしょうか。

名文は個別具体的に提示はできても、定義はできないのである。

斎藤美奈子「文章読本さん江」

 しかしここで斎藤氏は、彼らの引用する文章に注目します。多くの文章読本は「本文+引用文」で成り立っており、どんな文章を引用文として記載するかが腕の見せ所。例えば、「読者にもわかりやすく書け」と本文を書いたなら、その後には「読者にわかりやすく」書かれている例をもってくる。「シンプルに飾らないで書け」と本文にて主張したならば、その後に「シンプルに飾らないで」書かれている例をもってくる。この引用文にこそ、彼らの支配されているイズムが見て取れるのだと言います。

 彼らの支配されているイズムとは何か。それはヒエラルキーです。彼らの引用する文章には、明確なランクづけがあったのです。
 例えば、最上位カーストに位置する文章は文学作品です。「このように書け」という本文の後には、彼らが若いときに読んで感銘を受けたという文学作品が並びます。
 森鴎外「山椒大夫」、二葉亭四迷「浮雲」、川端康成「伊豆の踊子」、島崎藤村「夜明け前」、夏目漱石「こころ」……などなど。彼らは文学作品の書き出しを例にあげて、「書き出しに気を配れ。このように。」と主張します。

木曽路はすべて山の中である。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

斎藤美奈子「文書読本さん江」

 そして斎藤氏は、最底辺カーストの文章例として、素人が書いた文書が引用されていることを指摘します。だめな文章、良くない文章、添削してやった方がいい文章としてケチョンケチョンに手直しされるのは、いつも名も無い素人が書いた文章なのです。

 激しい攻撃にさらされるのは、新聞雑誌の投稿、すなわち素人さんが書いた文章である。

斎藤美奈子「文章読本さん江」

 つまり、文章読本における主張には説得力がない、ということです。
 「このように書け」と主張する時、彼らが例としてもってくるのは、すでに他人が充分なまでに褒めそやした貫禄のある文章。それに対して「このようには書くな」と主張するときに例示されるのは、文句をつけても反論が来ないであろう権威のない文章。所詮は、他人に迎合するようなものでしかないのです。彼らの主張とは。

 上には卑屈で下には横柄。それが彼らの支配されている思想。いかに彼らが「これが名文なんだ」と威張り散らしたところで、虎の威を借っているに過ぎません。なぜなら、その引用文はすでに名文として確立しているのですから。そして「駄文」というレッテルと張り、名も無い素人の文章を口悪く罵る。彼らは、さも「自分は添削される立場ではない。添削する立場だ」と言わんばかりにダメ出しします。

 有名ユーチューバーの周囲をついて回る取り巻きども、あるいは大谷翔平の関係者だと吹聴する輩たちと一緒なのです。以前、こんな記事を読んだことがあります。「大谷翔平への取材陣にも階層があり、カースト上位の者は『自分は●●年前から大谷翔平と一緒に仕事をして、彼の信頼を得ている』等と吹聴してカースト下位の者にマウントをとっている」というもの。これと同じです。恣意的に特権意識をつくって、それを隠れ蓑にしている。
 文章読本の著者とは、何ともズルい連中なのです。

3.露呈する矛盾。文章読本の無価値

 そして、ここから斎藤氏は、文章読本著者である「彼ら」の矛盾を暴きます。上には卑屈で下には横柄という「人間としてどうなの?」という思想の彼ら。文章の上達方法を指導する文章読本の、根幹をも揺さぶるような矛盾です。その矛盾を暴く鍵となるのが、「シカの手紙」と「アナタ」です。

(1)シカの手紙

 文章読本にはしばしば「シカの手紙」が「達意の文」として引用されます。
 シカの手紙とは、野口英世の母・シカが息子のためにしたためた手紙。野口英世は細菌学者であり、我々日本人の模範者として例に挙げられます。貧乏という苦難を乗り越え、その功績が世界に認められたからです。そんな野口英世を語るときについて回るのが、母・シカの手紙。文盲だったシカが息子の出世を喜び、そして再会を願い、近所のお坊さんに書き方を教わって書いたものと言われています。

 シカは文盲だっただけあって、この手紙は上手くありません。字は汚いし、誤字脱字も認められる。「。」を「◯」と、大きく書いてもいる。ハッキリ言って拙い。が、この手紙を例に出し、彼らはしばしば感嘆します。やれ「行間に気持ちがのっていて意味深である」とか、やれ「子どもを思う母親の気持ちが伝わってくる」とか。

 けれど、このシカの手紙を模範というのであれば、文章読本に書かれているそれまでの技術指導は何だったのか。「名文を読んで自分に蓄積しろ」とか「読者にわかりやすく書け」とか「起承転結に」などの教えはどこに行ったのか。上から目線で人の文章を技術指導しておいて、その教えに適っていない文章を模範して示す。これでは主張に一貫性がなく、それどころか主張の向きが正反対であり、矛盾です。

 もしこれを「達意の文」というのなら、文章のためには、文章読本で上達をめざすどころか、学校教育も受けないほうがいいのである。

斎藤美奈子「文章読本さん江」

(2)アナタ

 もう一つ、文章読本で「達意の文」として使われる例に「アナタ」があります。これは、南極観測隊の隊員に宛てて若妻が送った電報です。電報には三文字、「アナタ」とだけ記されてあったという。

 確かに「アナタ」という三文字の手紙には、想像をふくらませる力があります。奥さんがご主人を思って書いた・つぶやいた「アナタ」という言葉。

・アナタに早く会いたい
・もう一度アナタの声を生で聞きたい
・アナタのそばにいたい・寄り添いたい
・危険な仕事を止めてアナタに帰ってきて欲しい
・アナタともう一度、我が家で一緒に生活したい

など、色々と空想できます。

 けれどやはり、これまでの技術指導は何だったのでしょう。読者にわかりやすく、起承転結で、書き出しを気をつけて……。これまでの指南すべてが無に帰すではありませんか。文章の書き方を教える内容のはずなのに、好例としてもちだされたのが「文章」ですらなかったという暴挙。読者の想像に頼らざるを得ず、わかりやすくもない。三文字の言葉なので起承転結になりようもない。書き出しに気をつける、というか書き出しで終わっている。それまで説いてきた心得をすべてひっくり返す形勢逆転のクーデター。文章読本とは何なのか。

 もしも「アナタ」の三文字で用がすむなら、しちめんどくさい文章修行などはさっさと中断し、「カネオクレ」「チチキトク」式の電報文でもたくさん暗記したほうが役に立つのではないか?

(3)読む価値もないもの

 つまり文章読本とは、読む価値もないものなのです。説得力がないのですから。
 その昔、古代ギリシャのアリストテレスは、説得に必要なものとして3つの条件を上げました。エートス、パトス、ロゴスです。エートスとは語り手自身が持つ性格、パトスとは情熱、ロゴスとは論理と訳されます。説得力をもつには、語り手自身の性格が良くて、話しが情熱的で、しかも論理的である必要があるのです。

 文章読本は、このうちエートスとロゴスを失墜させているといえます。ロゴスを失墜させているのは、矛盾があるからです。文章の書き方の技術指導をした後に、その反例を示してしまったのでは論理的矛盾。自分の主張を自分で論破しています。

 そしてエートスをも失墜させています。これは、彼ら自身が人間として模範となる性格ではないということ。「シカの手紙」や「アナタ」を模範として持ってくるあたり、人間として間違っているのです。

 「シカの手紙」や「アナタ」は、彼らのヒエラルキーの最下層に位置します。彼らは権威ある文章を名文として称え、権威のない文章を悪文として追い立てる階級思想の者。文学作品でもない、名も無い素人が書いた文章は、最底辺カースト。それなのに、その最下層の文章を彼らは「これぞ模範だ」と褒めはやし、チヤホヤとして持ち上げる。これはどういうことでしょうか。

 これは、上から目線の哀れみなのです。実質の伴わない、単なるポーズなのです。自分には文章を書く資格も技術も権威もある。けれどそれを全面に出したのでは嫌味に見える。嫌味に見えては周囲の指示を取り付けることができない。周りから「嫌味なやつだ」と思われたくないし、なによりも自分がそう思いたくない。だから、最下層の文章に手を差し伸べることで、自分をカムフラージュしているのです。

 あたかも、「貧乏なんかに負けないで」と言って貧乏人に寄付をする金持ちと同じ。使い終わったサッカーボールを、スラム街で少年たちに配るサッカーエリートと同じ。

 慈悲をふりまく金持ちやエリートを見て、そしてそれに頼らざるを得ない自分たちの環境を鑑みて、貧乏人やスラム街の少年たちは悔しくて歯ぎしりするでしょう。それを想像できるように、手紙を書いたシカや「アナタ」の差出人は、自分たちの文章が、文章エリートから模範として示されることを、嫌味に思えて悔しがるに違いありません。

 シカのつたない手紙をありがたがるのは、珍獣を愛でるのと同じ発想なのである。

斎藤美奈子「文章読本さん江」

 このように文章読本とは、エートス的にも失格であり、ロゴス的にも破綻している、説得力のないものなのです。もはやそんなものを有難がって読むのは滑稽と言えます。

4.思想の愉快。まとめ

 というわけで、他人が支配されている思想を読み解くのは愉快、という話でした。

・文章読本著者である彼らは文学作品を敬い、素人の文章を蔑むという階級思想の中で生きている。
・文章の書き方について、「わかりやすく」「起承転結に」「書き出しに気をつけて」などと指導する割に、そのどれにも合致しない文章の「シカの手紙」や「アナタ」を模範として示す。つまりロゴスが破綻している。
・上に卑屈で下に横柄、上から目線で下の者を哀れむ。つまりエートスが無い。
・ロゴスもエートスもなく、文章読本には説得力が感じられない。

という内容でした。

 いかがでしょう。メタの視点で他人を見られると面白いですよね。本人も知らず知らずのうちに支配されている思想。本人にとって自明であるが故に自覚のないイデオロギー。本人は普遍だと思っているけれど、実は偏見に根ざしているというイズム。それらを暴くのは、本人の主張を切り崩すので愉快さが伴います。反論の楽しさ、思想の痛快さです。



参考

 自分も作文の書き方を教えている手前、心して読みました。こういう釘を差してくれる本があるといいですよね。自分への客観の目をもつことで、調子に乗ることの戒めになります。人に何かを教えるということは、「わかってないお前たちに、俺が教えてやる」という本心が見え隠れする、滑稽な行為なのでしょう。


 引用した文は、本当は構造主義について書かれたものだったのですが、思想についての説明として引用しました。思想について説明されたうまい文章があればそれを引用したかったのですが、うまく見つけられなかった。

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