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思考が先か、感覚が先か?

おはようございます。

noko的な発想として「分かったから動こう」というモチベーションがあります。
なので、すぐに不明な事があったりすると調べたくなります。
それを知った上で、どう動こうか・・・と考えます。

実は、これって実社会であまりいい経験にはつながっていません。

noko的発想っていうのは、他のケースもあるかもしれないっておもうからです。
けれども、今までの社会経験で「教えたから、あとは実践ね」っていう期間が短すぎて、教わったことを見よう見まねでやるだけで精一杯。

自分でやる時点では「そんなこと言ってないでしょ!」「違いますよ!」のオンパレード。ついには、人から見られることが怖くなってしまいました。

ここからが本題・・・

心理カウンセリングを習得して、モニタリングをさせていただいて知ったことがあります。思考が優位な人と、感覚が優位な人がいるってこと。

思考が優位な人

未知のものに出会うと「それは何か?」と知ろうとして、考えを巡らすタイプ。

思考ばっかり働きすぎると、現実が何も変わらない。
口数多くして、体動かず。
見方を変えると、言い訳してるような風にも見えるし、抵抗して体が動けないように突っ張っているようにさえ見えるんです。第三者の視点としてですけどね。

自分と他者の間には本人目線からは気づけない「誤解」が生じているんです。

自分の内面を言い表さない限り、この「誤解」は延々積み重なってしまう。
次第にそれは、亀裂を生み出してしまいます。現実に起こるのは「離別」「分かり合えない溝」「自信喪失」などなど、辛い経験がついてきます。

感覚優位な人

動きながら感覚で物事を捉えていこうとする人もいます。スポーツをしてる人なら、こちらのタイプがしっくりするんじゃないですか?

やってみて、わかってきて、あまり考えなくても体で覚えていくタイプ。

自分感覚で受け止めていくので、「言葉で言い表すのがムスカしい」って思うし、「説明なんて分かんないし邪魔くさい」とか言っちゃう。

けれども、仕事とか立場上、上司やリーダーとして部下や後身の人たちに教えを与える場合には、言葉が必要になってきます。その時に視点の置き方を誤って「誤解」を与えることがあります。

感覚ではうまくいくはずなのに、現実がうまくいかない・・・その時、沸き起こるのは「怒り」「見限り」「諦め」「自信喪失」だったりします。

誰しもが真のバランスを持っている

本当に現実にことを成そうと思ったら、思考も感覚もどちらも必要だってことを忘れないでいて欲しい。事実、誰にでも両方持ち合わせているはずだから。ただ、目を向けていないだけ。

感情に左右されてしまっているだけだと思うんです。

感覚を先に「実行してみる」体験を通じて、その体の感覚を言葉にするように「考えてみる」思考を働かせる。もしくは、勉強する。

やってみてから、考える。

これだけ。でも、思考が先に勝っちゃうのは「失敗したくない」「恥をかきたくない」という気持ちが隠れているからなのかもしれない。

実行だけで留めて感覚優位で終わらせてしまうのは「自分ができたらそれでいい」「人に負けたくない」という気持ちが隠れているからなのかもしれない。

いずれにせよ、感情に左右されているにすぎない。本当に見なくちゃいけないことは、そこじゃない。

真の視点に目を向けると道はひらける

横並びで勝った負けたを繰り返すのは、もうノン・センスだ。何のために、そのアクションは存在しているのか・・・そこを見落としている。存在意義を確認する必要がある。

私たちは、なぜそこに存在しているんだろう?これが明確になるほどに、今の生活はシンプルで豊かなものになっていく。




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