竹内 愛子

竹内一族をこよなく愛してます。『竹内一族』を調べています。 私自身の家系は、お爺様曰く…

竹内 愛子

竹内一族をこよなく愛してます。『竹内一族』を調べています。 私自身の家系は、お爺様曰く「九州から日本海側北陸伝いに移住し糸魚川から南下して生坂村に定住しためちゃくちゃ古い竹内」だそうです。ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします。

最近の記事

竹内 道治について

正直、この人に辿り着けるのか、不安でいっぱい。 史実文献が少なすぎる。 わかっていること 父 竹内季治 兄弟 竹内長治、女子(水無瀬親具室) 道治は父 季治の死後、福島正則に従し、三河の宝飯郡松竹古城の住す。 その福島氏との共通の繋がりは水無瀬家。兼成の養嗣子・親具となったが実子・氏成ができたため不和となった。氏成の子・兼俊は福島氏の娘が妻。 宝飯郡の松竹古城なんてネットに出てこない。。。どうしよう。。。 兄の長治が1536年 〜1586年だから、近い世代だと推定します

    • 甲斐國 竹内氏

      諸家系譜を訳してみました。が、崩し文字の翻訳はまだまだ勉強中なので、間違いがあると思います。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。 清和源氏 竹内氏 家紋 十五枚笹 替紋 丸に木瓜 何之誰ゟ出誰後胤而申儀不知 甲斐国住人竹内平兵信道長男 信友 初名不知 竹内松担 母 不知 妻 森美作守家来 入江市郎左衛門の娘 年月日不知 甲府ニ出生 (何の誰より出て誰の後裔かわかりませんが、甲斐国の住人竹内平兵信道の長男信友 初名は知らず、竹内松担 甲府で生まれましたが、生年月日は知ら

      • 菅原姓 竹内氏

        家紋 梅鉢 丸に三引 家傳にいはく、參議長成の二男彥次郞成光が後胤なり。德齋忠正元和二年御側坊主となり、後二丸の坊主頭に進み、其後本城に勤仕し、組頭となり、父子相續て正顯に至る。 諸家系図に先祖菅原衫長成次男 山城國住居仕竹内彦次郎成光後胤之家代々丞相自筆之後像入ミ竹筒ゟ之号竹内苗名改ム(この文章はまた後ほど解析中) 【家譜】

        • 橘姓 竹内氏の家譜

          こちらの橘姓 竹内さんも 敏逹天皇より出 左大臣橘諸兄後胤です。 【家譜】

        竹内 道治について

          古来の武内氏集

          武内竹内氏と通ず。多くは武内宿禰の後裔と稱す。 攝津の武内氏 武庫郡の名族にして、武内宿禰の後裔也と。足利義政の世、濱田庄一帯二百五十石を領せり。降って五十二世武内貞之の代、本願寺蓮如上人に帰依し、宿禰山浄専寺を建立すと云う。 紀伊の武內氏 名草郡小豆島邑の地士に此の氏あり。續風土記に武内安左衞門を載せ、又善勝寺條に「寺傳にいふ、天正元年の頃、武内太郞善勝といへる者、顯如上人に歸依し、當寺を建立す」といふ。 伊豫の武內氏 伊藤郡松前邑の豪族にして、武内正勝は、法華

          古来の武内氏集

          古来の竹内氏集 Vol.2

          1.古来の竹内氏集 Vol.1 2.古来の竹内氏集 Vol.2 竹内さん始まりの歴史。タケウチと読んだり、タケノウチと読んだり様々。 垪和氏族 傳へ云ふ、「從三位民部卿源豐治・竹内を辱し、垪和に居る。その裔垪和八耶爲長は、久米郡和田邑鶴田城に居リ、その子竹内善十郞爲能は高城に居リて、毛利氏に屬す」と。また一に「從六位下竹内伊豆守久秀八世の孫・鶴田城主垪和爲長の後」とも云ふ。爲能の戰死後、その子市左衞門久能・一の瀬城に移り、後叔父竹內中務亟久盛の子五郞左衞門久次と共に、宇

          古来の竹内氏集 Vol.2

          藤原氏支流 竹内氏

          清和源氏義光流なのか、藤原支流なのか? 諸家系譜では信重から始まっています。 信重の孫である信吉は家系を未勘でおさめ、信正(信吉の弟)は「藤原の支流」と言った。信吉と信正は兄弟だから同じ祖。信將(信重の仍孫)は「右京大夫仲治から六代左衛門尉勝治(基治の二男)の時、三河國に住し竹内と称す。信重はその三男です。」と云う。となると源氏じゃねーのか?ちなみに信将は養子で竹内に入りました。元々内藤忠郷の七男坊で内藤氏は藤原氏北家秀郷流です。何がなんだかわからない。まっ、どっちでもいい

          藤原氏支流 竹内氏

          古来の竹内氏集 Vol.1

          1.古来の竹内氏集 Vol.1 2.古来の竹内氏集 Vol.2 竹内さん始まりの歴史。タケウチと読んだり、タケノウチと読んだり様々。 大和の竹内村、陸奥に竹內神社あり。此等の地名を負ひしならんも、後世武内宿禰の裔と云ふも多し。此の氏には式部以下勤王家輩出す、奇と云ふべし。 大和の竹内氏 葛下郡竹内邑より起り竹內城に據る。擲士記に「竹内山城は竹內下總」と。また「竹内左内、竹内下總守秀勝、竹内半三郞冬雲(元亀二年七月、松永と筒井と辰市にて取合ひの刻、筒井方にて討死)」と載せ

          古来の竹内氏集 Vol.1

          ふたりの吉勝

          竹内吉勝(1581-1654)享年73 天正18年に東照宮に仕え御側小姓を勤め蔵米200俵、その後大番となり大阪の御蔵奉行に転勤でプラス新恩100俵の給料。なので合計300俵。 村上吉勝(1574-1637)享年63 天正17年に東照宮に仕え、13歳で下野國都賀郡500石、その後、駿府にて印籠を貰ったり、上総国佐貫庄の650石を貰ったり合わせて1150石の御朱印が下りました。のちに大番、番、小普請になりました。 【共通点】 名前 安土桃山時代から江戸時代初期 東照宮 2人

          ふたりの吉勝

          源氏 竹内數馬さん

          敏久(數馬)さんの家系譜は理左衛門の官職名が付いている盛清がいるので可能性としては村上源氏系ではなかろうかと推測します。 系譜 こちらの竹内さんは支配勘定という筆算ができないといけない職に就かれています。 竹内理左衛門某(長十郎)は1667年から1723年の享年56。 竹内理左衛門繁高(理八郎)は1692年から1741年の享年49。 竹内勘左衛門繁久(數馬)は田安の勘定奉行に勤めるが…。 竹内理左衛門某(繁久の息子) 宝暦4年3月に敬って、鳥目(銭)1貫文を献上し断絶。そ

          源氏 竹内數馬さん

          橘姓 竹内御三家

          敏逹天皇出左大臣橘諸兄後胤先祖 「竹内」今の呈譜に、橘氏にして五六左衛門吉實 三河國下條竹内村に住せしより称号とすと言う。 吉実一家 幸行一家 幸友一家 幸友こと信重 (?-1712) 小十人から組頭、小普請に昇進し合計300俵。 藤原家支流竹内氏にも喜右衛門信重(1532ー1604)がいるが別人。

          橘姓 竹内御三家

          宇多源氏 佐々木支流 竹内氏

          家紋 丸に蔦 義壽(よしなが/興五郎半十郎) |− 女子(富永数馬守平が妻) |− 善明(八百三郎左門)    |− 善高(善太郎)    |− 某(栄蔵) 義壽は宝歴12年7月御徒にめし加えられ、のち御作事の下奉行に転じ、拝謁を許される。寛政3年11月23日小普請方となり、5年3月23日仙波御宮諸堂社及び三芳野天神等のい普請をうけたまはりてかの地に赴く。 ※推測 元禄15年頃〜宝暦8年(1702〜1758) 善明は寛政3年12月22日に初めて将軍家(家斉)に拝謁し8年

          宇多源氏 佐々木支流 竹内氏

          村上源氏 竹内

          発祥 諸家系譜には、先祖である久我右大臣従位師房公末葉≡少将尚治朝臣が竹内と称す。(佐々木某の家臣竹内左近右衛門長次。) 本國 江州(近江国)/家紋 源氏車 四目結 家伝に、久我の末流なり。青木又蔵兼重の長男 正勝が竹内盛清の養子になり、神田の館に仕う。 家系譜 【云い傳】 青木又蔵の父 青木五郎右衛門之貞は大神君に召し出され大阪両御陣に供奉。その後病身により閑居(近江國甲賀郡) 正勝(1607ー1693)近江生まれ 竹内≡少将尚治朝臣の後胤で江州甲賀郡で檜物店の長者

          村上源氏 竹内

          垪和竹内氏の系譜

          【家紋】 丸に抱花杏葉 【家譜】 【感想】 久盛さんのルーツです。 姓氏家系大辞典4巻 言い伝えに從三位民部卿源豐治・竹内を辱し、垪和に居る。 とありますが、これはどういう意味ですか。しかし辱しとは?辱ははずかしめる、かたじけないの意。 豊治さんは竹内に辱(かたじけな)く垪和に移住したのか、竹内氏を辱(はずかし)めて移住したのかどっち?もしくはもっと違う意味?まさか誤字ですか?属しの間違いですか。 それと、 從六位下竹内伊豆守久秀八世の孫・鶴田城主垪和爲長の後とあり

          垪和竹内氏の系譜

          清和源氏 竹内家

          竹内氏はいろんな地域で生まれてきた中でも、最もメジャーな公家の竹内さん。 竹内家(京都) 【清和源氏、平賀氏族】 清和源氏、源頼義の子義光より出づ、立家の祖氏治といふ。 平賀盛義の後なり。武田系圖に義光の子平賀盛義、公家竹内祖と見ゆ。竹内系圖に大內惟時-信治-氏治(竹内太夫)-仲治-清治-重治-豐治-基治-秀治-季治-長治-孝治-俊治と見ゆ。俊治の後は惟庸-惟永-惟重-惟久-惟榮-惟德-惟敬-惟和-惟賢-惟忠-。現今子爵。 【家譜】 公家の竹内さんで最も有名な季治さん

          清和源氏 竹内家

          竹内家【公家・華族】

          竹内家(たけのうちけ / たけうちけ)は清和源氏平賀氏庶流の公家・華家。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家。 概要 いわゆる堂上源氏で家系は清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。大内惟信の系統である竹内信治(左近将監)・氏治(竹内大夫)父子が竹内を称したのに始まる。家業は弓箭と笙と和歌。 久我家の諸大夫だった氏治の子孫の正三位大膳大夫・竹内季治(1518年 – 1571年)の時代、竹内家は堂上家に加えられた。 竹内惟庸は冷泉派の歌

          竹内家【公家・華族】