藤原氏支流 竹内氏

清和源氏義光流なのか、藤原支流なのか?

諸家系譜では信重から始まっています。
信重の孫である信吉は家系を未勘でおさめ、信正(信吉の弟)は「藤原の支流」と言った。信吉と信正は兄弟だから同じ祖。信將(信重の仍孫)は「右京大夫仲治から六代左衛門尉勝治(基治の二男)の時、三河國に住し竹内と称す。信重はその三男です。」と云う。となると源氏じゃねーのか?ちなみに信将は養子で竹内に入りました。元々内藤忠郷の七男坊で内藤氏は藤原氏北家秀郷流です。何がなんだかわからない。まっ、どっちでもいいけど。。。

【家紋】

信重 丸に木瓜
信正 丸に横木瓜 丸に三柏
信親 丸に横木瓜 三柏

【家譜】

秀勝さん?
信次系譜


【勝治】(
【是勝】(1519ー1571)
【秀勝】(?ー1571)

【信重】(1532ー1604)家康公に仕える。
橘姓 竹内氏にも喜右衛門信重あり。別人。
【信次】(?ー?)享年84
東照宮につかへたてまつり、御小姓を勤む。時に十九歳そののち御徒の頭に転ず。信次少年のとき、射芸をこのみ、よく的に中つ。ゆゑに東照宮たはぶれに發知八蔵とめされ、仰によりて麾下の諸士信次に射芸を学ぶもの数多なり。天正十二年長久手の役に首二級をうち取、唐頭付たる甲及び村正の脇指を分捕す。その後唐頭は加々爪次郎右衛門某にあたへ、脇指は内藤弥次右衛門家長にあたふ。そののち関原御陣にしたがひたてまつり、慶長六年より西城の御留守居番をつとめ、のち奥方番に転じ、寛永十年致仕し、某年死す。。
※『寛政重脩諸家譜』巻第九百六十七藤原氏(支流)竹内

もしかしてここに秀勝さん!?

お気をつけください
あくまでも仮説なので鵜呑みにしないでください疑ってください

静岡県中央図書館の資料である改選改選諸家系譜続編の参考にしました。
この家系譜はちょっと間違いもあり見極めないといけません。なんせ秀勝さん2回出てきますから。。。転生したのか?バグってる。

秀勝さんがなぜに勝治さん系かと言いますと勝治さんの勝の字を受継いでいる。単純。
秀勝さんの秀は松永久秀からの偏諱らしいでっす。

それでは諸家系譜に戻ります。
【信重】新羅三郎義光から九代目の後宇多院上北面左近将監右京大夫仲治。その仲治から六代目の左衛門尉勝治お三男が信重。
喜左衛門信重の本国生国とも三河。
酒井将監と一緒に仕事をしました(相仕)が細かいところ(委細)はわかりません。


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