古来の竹内氏集 Vol.1

1.古来の竹内氏集 Vol.1
2.古来の竹内氏集 Vol.2

竹内さん始まりの歴史。タケウチと読んだり、タケノウチと読んだり様々。
大和の竹内村、陸奥に竹內神社あり。此等の地名を負ひしならんも、後世武内宿禰の裔と云ふも多し。此の氏には式部以下勤王家輩出す、奇と云ふべし。

大和の竹内氏

葛下郡竹内邑より起り竹內城に據る。擲士記に「竹内山城は竹內下總」と。また「竹内左内、竹内下總守秀勝、竹内半三郞冬雲(元亀二年七月、松永と筒井と辰市にて取合ひの刻、筒井方にて討死)」と載せ、また片岡氏配下の將に存し、又萬財氏配下に「竹内八郞右衛門、九郞右衞門」等見ゆ。

清和源氏

清和源氏、源頼義の子義光より出づ、立家の祖氏治といふ。
堂上家なる竹内家にして、平賀盛義の後なり。武田系圖に「義光の子平賀盛義(公家竹内の祖、平賀四郞、住信濃國)」と見え、尊卑分脈に「盛義ー義信ー惟義ー惟信ー惟時ー信治」と見ゆる信治の子氏治を祖とす。即ち諸家系圖纂に「左近將監信治ー竹内大夫氏治」とあり。
又竹内系圖に「信治(左近將監、従五位下)ー氏治(竹内大夫)ー仲治(久我殿に屬す、民部丞)ー清治(右衞門尉)ー重治(文明六年四月十三日從五位下、文和なるべし)ー豊治(文安四正月五日従四位下と歴名士代に見ゆ。系図には応永二十九年十二月十八日従四位下と)ー基治(長徳四年従四位下)ー秀治(天文八年正四位下、民部大輔)ー季治(宮内少輔、永禄三年正月、大樹の御執奏に寄り、堂上に加わえられる。四十三歳。同五年正月五日、正三位、元亀二年九月十八日、近江國に於いて、橫死、五十四歲、武命に依りて也)ー長治(天正十年四月七日卒、五十一歲)ー孝治ー俊治(竹内殿)」と。世々久我家の諸大夫たりしが、永禄3年正月将軍家の執奏により季治清華に列せられる。
又知譜拙記に「竹内季治(秀治迄は代々近衞殿に侯す。永祿三正、將軍の執奏に依り、堂上に加はる。大膳大夫、昇殿、正三。法名真滴)ー長治(刑部卿、従三)ー孝治(従ニ、刑部卿)ー俊治(弾正大弼)ー惟庸(従三、元富治、貞享二形部卿、四十六才)」と。その後は「惟康ー惟永ー惟重ー惟久ー惟榮ー惟德ー惟和ー治則ー惟忠」なり。
その他、歷名土代に「久我諸大夫竹内源季治、天文廿四、正、六」と。德川時代、平家、舊家、百八十七石、方領百石。後百八十七石、(二百八十一石餘)。今出川烏丸角。寺は洛東正行寺。現今子爵。竹内 號衣御印
こちらに『清和源氏竹内家の系譜

藤原北家閑院流

四關寺家の一稱號にして、太平記卷五に「竹内、左大臣公衡」と。四圓寺條を見よ。

村上源氏久我氏族

久我家の末流なりと云ふ。家紋源氏車、四目結。江戸幕臣にして、寛政系譜に、「平左衛門正盛ー正祥(十内)ー小平次正生」と見ゆ。
こちらに『村上源氏 竹内氏の系譜

佐々木氏族

近江國蒲生郡の名族なりと。江戸幕臣となる者ありて、寛政系譜に此の氏あり。「半十郞義壽(奥五郞)ー善明」と。
又寛政の頃、彥根の人に竹内勘兵衞あり。阿波國那賀郡水井邑に至り、石灰の礦脈を發見し、國富を增す。その嗣子を十郞兵衞と云ふ。
こちらに『佐々木氏族 竹内氏

尾張の竹內氏

知多郡の豪族にして、竹内茂右衞門は水野信元の家臣也。又草木城(草木村)は竹内彌四郞・守りしよし也(尾張志)。

三河の竹内氏

額田郡の豪族にして、同郡名の内城(名の内村)は二あり、一は高氏の城、一は竹内彥太夫、山内角平の居住せしもの也と。又大河城(大河村)は、熊谷武藏守の家臣竹內九藤平(日近合戰討死)の居城也。また柳田城(柳田村)は後に竹內彥太夫の居城となるとぞ。猶ほ次の二項も三河の竹內氏也。

橋姓

室町幕府永祿六年諸役人付に、「竹内橘兵衛尉」見ゆ。その後、江戶幕臣に在り、家傳に「五六左衞門吉實なる者、三河國下條竹内村に住せり」と。家紋丸に三葉柏、五七桐、七本骨扇。但し寬政系譜には未勘に收め、「五六左衞門ー同名ー源右衞門吉勝ー又左衞門吉明ー五郞左衞門幸和ー幸元ー幸茂ー幸政」と。
こちらに『橘姓 竹内御三家
同書、また別に橘姓竹内氏を擧げ「六右衞門守次ー吉左衞門喜次ー彰次ー元次ー光次」と見ゆ。

藤原姓、又云義光流

これも三河発祥にして、寛政系譜藤原姓に收む。家紋丸に木瓜。丸に三柏。一に清和源氏義光流にして、「右京大夫仲治が六代左衞門勝治(三河國住、竹内氏と稱す)ー喜右衞門信重(家康に仕ふ)ー五左衞門信次(八蔵)ー二郞左衞門信吉、弟平右衞門信正ー平十郞信就ー信澄」なりと。
こちらに『藤原氏支流 竹内氏』←竹内勝秀?

清和源氏平賀氏族

甲斐國巨摩郡上條南割村竹内より起りしかと云ふ。平賀右近將監信治より出づと。前項參照。竹內與五左衞門に至り、勝頼に仕ふ。或は云ふ、武内宿禰の遠裔武內繼部正政範の後胤とも稱す。

守部氏族 首藤氏族

守部裔首藤氏族 淺羽本山内首藤系圖に「鏈殿助時通ー首藤通綱ー通明(首藤六郞、號竹内)」と見ゆ。

菅原姓

江戶幕臣の一にして、「參議長成の二男成光の後胤なり」と云ふ。
姓は菅原氏天穂日命の後、長成二男成光 竹内に改む。
家紋丸に三引、梅鉢。家紋丸に三引、梅鉢。
「彌兵衞正顯(市十郞)ー小傳次之方」等、寛政系譜に見ゆ。

下總の竹内氏

小金の名族にして、幕末、竹内紋五郞棟(隆卿)、その弟哲次郞、及び竹内廉之助、同哲の兄弟、皆勤王家として名あり。

越後の竹内氏

頸城郡の名族にして、名立の大宮(江野神社)の神主家也。建內宿國の後と云ふ。又有名なる竹内式部(敬持)は新潟の人にて、醫師宗詮の子也。勤王論者の魁として正四位を贈らる。

丹波の竹內氏

赤井氏家臣にて、子孫氷上郡に存す。丹波志に「竹の内氏。子孫・谷村。先祖は古城主赤井氏の臣也。竹の内又左衞門、在中に塜あり、法名善空と云ふ」と見ゆ。

因幡の竹内氏

八東郡殿邑和多種神社正慶の棟札に「奉行竹内彌七郞定勝」見ゆ、小島の郷士也。又高草郡野坂郷士に竹內國重あり。またもと宮家(ミヤケ グウケ)と稱せしもの存す。

美作の竹内氏

古城記に「高土城は境村に在り、また高山城は角石畝に在り、並に竹内氏の所居」と。當國竹内氏は武內宿禰裔と云ひ、或は平姓、或は源姓と稱す、次の二項を見よ。
一に「武內宿禰の末裔、竹内治郎太夫重常が六代の孫竹内東馬允信利は、赤松氏に仕へしが、永祿年中浪人して、當國苦北郡綾部郷内草加部に居る」と云ふ。

廣戸氏流

美作の名族にて、傳へ云う、「平惟宜が十世の孫竹内與四郎廣次と云う者、楠正行に従ひて功あり。作州廣戸大吉荘を賜る。よりて地名を負ひ廣戶氏と稱す。廣次十三世の孫廣家に至り、浮田氏に滅され、其の弟廣光に至り、また竹内と稱す」と。後裔勝田郡廣戶村市場(竹内氏)、苦田郡加義倉見等に存す。


佐味朝臣 竹内氏

笹川で2つの竹内氏。大和朝廷の命を受けて東国の平定に当たった豊城入彦命の家臣団、佐味朝臣一族の郎党である竹内氏。
北陸遠征に出た竹内宿禰の息子藤津が射水に定住した竹内宿禰末裔の一族。先住民と混ざる。
竹内亮(タケウチ スケ)

参考文献 姓氏家系辞書

1.古来の竹内氏集 Vol.1
2.古来の竹内氏集 Vol.2

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