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ポムグラネイトに告ぐ ep.2 宮前 隆二 / 創作

隣の隣の街の高校に入学してから、母親は僕に何も言わなくなった。母から言われるがまま中学では常に上位をキープしていたし、トップ3から漏れるとその日の夕飯はなく、気を失うまで殴られながら実の父親が物置として利用していた地下室に翌朝まで閉じ込められた。そのまま布団も敷かれていない部屋の硬い床で眠り、目が覚めれば制服を身にまとって学校へ向かった。母親は僕の顔は絶対に殴らなかった。洗面所で服を脱いで身体を見ると顔だけが本来の綺麗な肌色のままで、身体はというと新旧様々な痣に包まれている。痣には段階が3つくらいあって、出来たてのそれは赤色をしている。段階を上げるとそれは青色、治りかけになると黄色へと色を変えて、信号みたいだなと思いながら痛む身体を揉んだ。一度だけ「どうして顔は殴らないの」と涙ながらに聞くと、母親は冷ややかな声でそれを愛と呼んだ。学校から命からがら帰宅すると母親は僕を抱き締めて一生懸命謝った。子供ながらに、声を上げて泣く母親のことを 「可哀想だな」と思っていたから、中学2年生になる頃には母親の意図が何となく飲み込めた。だから何も言わなくなった。僕が苦しそうな顔をしないのを見て、明らかに母親はそれを訝しがって、握り拳からフライパン、フライパンから金属バットへと、いわゆる武器が変わった。僕が中学に入る頃にはもうお姉ちゃんは家から出ていて、外のおうちに住んでいた。お姉ちゃんが帰ってくると母親からの暴力は無くなるととともに、お姉ちゃんが家にいる間は家族みんながずっとニコニコしている。母親もお姉ちゃんも僕に対してとても優しかった。だから僕はお姉ちゃんが大好きだった。
高校へ進学して、生まれ持っての運動神経の良さから野球部に入らないかと言われた。確かに昔からボールを投げることも、また取る事も得意だったし、それも悪くないんじゃないかと思った。ただ、先輩の言葉ひとつを取っても、いちいち母親の顔が脳裏に浮かぶ。一頻り悩んだ挙げ句、体験入部を選んだ。「あそこに向かって力いっぱい投げてみろ」そう言われながら先輩が僕の背中を押す。先輩から受け取ったぶかぶかのグラブを嵌めて、白球を力のままに投げ込んだ。数メートル先で構えていたキャッチャーのミット中心に、豪速球がターンと大きな音を立てて収まる。一気に傍らで眺めていた現役部員が沸いた。産まれてこの方、殆どテレビを見てこなかったから「野球」というものを存在程度しか知らなかったけれど、この瞬間野球というものは面白そうだと思った。勢いでそのまま入部届けが手渡され、家に帰る。入部にはもちろん、保護者の許可がいる。中学の頃は学力を身に付けなきゃいけない、という母親の言葉を信じていたし、僕は部活に入る必要はないと信じていたけれど中学で僕は沢山頑張ったから、母親も受け入れてくれるんじゃないかと胸を躍らせながら玄関の扉を開けた。
「野球部に入ろうと思うんだ」と言うと、四の五の言わずに母親は僕を殴った。しかも今回は久しぶりに握り拳を作って、僕の顔を目掛けて思いきり殴った。鼻血が沢山出ていることに気がついたけれど、それよりも母親が泣いていることが気になって、垂れた血が靴下に染み込んでも暫く、泣きじゃくる母親を見つめていた。その後も母親はいつものように僕の身体を気の済むまで殴る。冷たい地下室の床の上で、僕は高校になっても部活に入っちゃいけないんだ、ということを淡々と受け入れた。
翌日、いつものように先輩が声を掛けてきて、そこで初めて頬に傷が残っていることを知った。すかさず僕は「昨日の夜、冷蔵庫の中身をつまみ食いしようとしたら、暗闇の中で段差に足を取られて転んじゃって、マジ痛かったです」と嘘をついた。先輩が大笑いするのを見ていると、どうやらこの返事は正解らしい。今日もまた、という言葉を遮るのも忘れて、グラウンドに足を進めた。昨夜は野球部に入ることに対して怒っていたけれど、遅く帰ってきたことに関しては一つも咎められなかったから、大丈夫だろうと踏んだのだ。
今日のプログラムは打撃と筋力トレーニング。ティースタンドに置かれた球を、投げる時と同じように力いっぱい打ち込んだ。ネットの中がみるみるうちにボールでいっぱいになっていく感覚が楽しかった。
グラウンドの脇には一棟の建物が併設されていて、そこが部員専用の筋トレルームになっている。中には様々な器具が用意されていて、赤と黒という一定のトーンで揃えられたそれらが、妙に自分の興味を擽った。この時点で、だいぶ先輩たちに気を許していた僕は勧められたベンチプレスにばかり気が周り、自身のハンディキャップのことなど忘れていた。「汗、かくからさ」という言葉のままにインナー1枚になり、上半身のほぼ全てを大勢が見る前でさらけ出してしまった。無数に現れる大小様々の痣は、まだまだ新しいものだった。普段の練習で生傷も耐えないであろう部員の目が、恐怖に似たものに変わっていく。他の体験入部の部員と肌の色を冷静に見比べてみると、明らかにその色が違っている。これまで散々身体に傷を重ねた結果、僕の身体は修復できないほどに色を暗くしていた。これだけのものは、流石に言い訳のしようがなかった。
「また明日も来てよ」と言っていた先輩は、無言のまま僕を見送った。いつしかこうなることが分かっていたような気もするし、分からなかった気もする。

その夜、家の電話が鳴った。高校からの電話のようで、こちらに目配せした母親がもう一度電話口に向き直り、いつもより高い声で話を始める。時間が経つ毎に母親の声は暗いものになり、受話器を置くと同時くらいのタイミングで、僕を殴るのかと思いきや、力任せに抱き締めた。母親は、泣いていた。

翌朝、母親は行きずりのまま「ごめんね」という書き置きを残して家の外に出ていった。表戸口に立っていた児童相談所の職員が言うには、ひとりの男と母親は肩を並べて出て行ったらしい。僕はお姉ちゃんに泣きながら連絡をして、こちらまでわざわざ来てくれたお姉ちゃんに事のあらましを全て話した。そこから高校にさえ行かなくなった。僕がここまで努力を重ねてきたその原動力は、母親の存在に他ならなかった。母親が僕を叱咤激励してくれない今では、もう頑張る理由すらもなかった。しばらく高校へ行かなかったら、自動的に退学になった。それを見兼ねたお姉ちゃんは隣町の北陵高校の定時制への入学手続きを進めてくれた。僕は本当は行きたくなかったけれど、お姉ちゃんがせっかく進めてくれた話を無駄にする訳には行かない。きちんと制服に身を包んで学校に通った。昼間の学校とは違う、淀みきった空気に辟易した。学習内容も中学分野に毛が生えたようなもので、中高真面目にやっていた僕からすればどれも楽しいとは思えなかった。しかも単位はほぼ前の学校で取りきっているから、尚のこと学習に対して前向きで無くなってしまったように思う。結局僕は北陵に通うことすらを辞めて、夜は隣町の市街地を徘徊した。僕が北陵を退学になってすぐ、週に一度しか来なかったお姉ちゃんが毎日家に居るようになった。いつの間にか母親が使っていたドレッサーが脇に寄せられていて、代わりにベビーベッドがそこに置かれていた。
「あのね、お姉ちゃん、離婚したの」から始まる話の内容はよく覚えていないけれど、どうやら相手の男が浮気をして、家を出ていったという筋書きだった。結婚した時、写真を見せてくれた時には優しそうな人だと思っていたのに。僕を捨てたお父さんも、お姉ちゃんを捨てた男も、みんな嫌いになった。

ある日、いつものように隣町の市街地を徘徊していた。最近までカラオケに行くことが暇つぶしになっていたけれど、それも何だか飽きてきたし、第一僕は、歌というものをほとんど知らなかった。本町一丁目のガード下はそれなりに回りきって、ピンク街がある二丁目に向かって歩く。そうして、一丁目の外れにある飲み屋に差し掛かった時だった。
「え、もしかして宮前君?」
キャップの上からフードを目深に被った2人組に声を掛けられた。顔がよく見えなかったが、声を頼りに誰だかがはっきりする。かつて野球を誘ってくれた先輩と、僕のボールを受けてくれたキャッチャーの先輩だった。
ただあの頃のような凛々とした表情はなく、だいぶ酒を飲んだのか、顔中が真っ赤に染まっている。傍らには、髪を金色に染めた女が座っていた。

彼らの話を要約するとこうだ。あの後部室で喫煙をしていたことがバレて、即刻で退学処分になったという。エースである2人に期待をかけていた顧問も味方をしてくれることなく、すごすごと学校を後にした。進学校に通っていたプライドゆえ、そのまま北陵にも進学せずに中卒の身となり、今は知り合いのところで金を稼いでいるらしい。話し方もだいぶ変わってしまって、当時の面影すら感じられなかった。こういう類の世界に落ちた人間はいつも、人の悪口で暖を取る。かつては輝いていた人間の失墜を目にしたからか、飲酒もしていないのに身体中が火照るように熱くなった。そんな折、先輩が思い出したように僕にこんなことを言った。

「隆二、お前はやっつけたい奴っているか」

いつの間にか、下の名前で呼ばれていることに気がついて一瞬ドキッとしたものの、名札や持ち物を確認していればそれもそうか、と思いながら、注がれた日本酒をそのまま飲み干した。水のような見てくれからは想像もつかないほど、今度は本当に身体が熱くなる。胸あたりから生じた熱は、そのまま全身にめらめらと火をつけるように頭までを駆け巡る。その勢いを保ったまま、僕は呟いた。

「夫」

初めこそケラケラと笑っていた先輩の顔が急に真面目な顔になり、僕は返事を待たずにその理由を洗いざらい話した。母親から暴力を受ける僕を見放して、家を出ていった父親の話。お姉ちゃんを放ったらかしにしながら別の女を作って、家を出ていった夫の話。
こうして「夫なる人間をやっつける会」が結成され、先輩が連れてきた女を的として、南陵線のホームで男を待つことになる。
マッチングアプリに書いてあることは嘘ばかりだ。フォルダの奥から彼女が黒髪だった頃の写真を引っ張り出して、別の人間の塊のようなプロフィールに手早くそれを貼り付ける。こんな見え透いた罠に、人は引っかかるのだろうかと些か懐疑的だったが、しばらく時間が経つと一本だけ連絡が入った。距離にして2キロの場所に、そいつがいる。南陵線に電車が侵入してくるのは、1分後のことだ。目印はスマホのライトだった。

1番線に電車が停まる、というアナウンスが鳴り、全員で息を呑んだ。北陵の方向からゆっくりとこちらに近づいてくる電車を見つめながら、焦れったい時間だな、と思った。開いた3枚のドアをそれぞれ先輩を含めた3人で見張っていたが、スマホのライトをつけたものは1人も降りてこない。夜中近く、利用する客も少ない中、それらしい男は出てこなかった。客の出入りを見届けた電車はそのまま、次の終着駅へと向かっていった。

「俺たちに気がついてビビったんじゃね?」

とボヤきながら、先輩が手持ちの煙草に火を点ける。キャッチャーだった先輩が煙草を持つと、束ねた付箋紙のように小さく纏まっているのがおかしくて、何だか笑ってしまった。そのまま生まれて初めての喫煙を遂行し、見晴台の方へと降りようとすると、遠くの方からスマホのライトをつけたまま、こちらに向かってくる影が見えた。4人がほぼ同時にその様子に気が付いて物陰に隠れる。暗くてよく見えなかったが、事前に伝えられた特徴と明らかに合致する男が目の前まで迫ってきた。

そういえば 「やっつける」と先輩は言ったけれど、どのように「やっつける」のか、確認を取っていなかった。どうするんでしょうか、と改めて確認を取ろうとすると、ピッチャーだった先輩が抜群の腕力を使って、男を殴り始めた。母親が私の顔を執拗に殴ることはなかったから、ここで初めてはっきりとすることが、人間の顔は真綿のように柔らかく、すぐに出血が始まるということだ。目の前で繰り広げられている凄惨な光景に目を奪われて、動けなくなっているとキャッチャーだった先輩に蹴り飛ばされ、ここまでのこのことやってきた男の顔が見えた。もうすでに数十発は殴られて、右眼の部分は形を変えているも、彼が誰であるかがはっきりと分かった。昔写真で見せてもらったあの顔だ。生まれてこの方十数年、殴られ役に徹していたはものの殴り方すら知らない。先の先輩のフォームを真似ながら、白球を投げるような勢いで無我夢中で顔を殴った。白かった顔が赤赤と浮腫むのを確認しながら、何度も何度も、拳を振り下ろした。順番が入れ替わり、自分の番とは比べ物にならないくらいの音量で彼が殴られている。転げ回るかのように落ちてきた僕を含めた一団は、見晴台公園を過ぎて、車道へと繋がる遊歩道まで降りてきていた。" はぁはぁ " という人間らしい呼吸は、" ヒュウヒュウ " という音へと変わっていた。懐から財布を取り出しても、札の代わりに大量のレシートが入っているだけだった。小銭入れには100円も忍ばせていない。キャッシュカードこそ出てきたものの、これも使えない。取り出したものをもう一度長財布に押し込むと、林道の奥を流れる小川に先輩達が順々に投げ込んだ。

血みどろになった塊を、牛舎からくすねてきた麻袋に入れる時、身体がまだ温かかった。何処から出ているかも判然としない血を手に浴びて、野磨断崖までこれを運んだ。移動中、腕時計を眺めながらそんなに時間が経っていないことに驚いた。こればかりの時間で人をここまで変えてしまう自分が恐ろしかった。免許を持っていないはずの先輩の運転は狡猾なもので、慣れた手つきで山道の急カーブを下る。速度看板の60という数字から、スピードはもうふた周りを超えていそうだ。もう、引き返せなかった。野磨に着くとすぐに、先輩に命令されるがまま穴を掘った。古来の人間は自信が死を迎えるであろうという時になると、家来達に墓を掘らせたという。今置かれている状況はまさにそんな感じだ。車内から降ろしたスコップと、アウトドア用の小さな脚立を使って深さ2メートルほどの穴を掘りきった。そしてその深い穴底に彼を放り込むかと思いきや、先輩達はおもむろに麻袋の中から彼を引き摺り出した。彼ら曰く、死にゆく人間の顔を見たかったらしい。10分ほどのドライブを通して、腫れ上がった彼の顔には幾らか生気が戻っていた。

「こいつ、口をパクパクさせてるよ」

と笑いあっている最中も、彼は口元を除いた表情筋を一切動かさない。そんな彼の顔をじっと見つめていると、無表情を貫いていた頭が一瞬、こちらに向いたかと思うと彼は僕にこう言った。

「お前、隆二じゃないか?」

そう呟く彼の瞳の奥は、水面のように澄んでいた。お姉ちゃんを疑うわけではないが、果たしてこんな眼をする人が、浮気なんかするだろうか。素直にそう思った。直感で、彼を助けなければならないと思った。僕が動き出すスピードと、先輩が「うるせぇな、ジジイ」と呟いてから動き出すスピード、どちらが速かったのかは分からない。彼を掴もうとした腕が、左側からやってきた太い脚に文字通り一蹴されて掴みそびれると、頭から穴の奥へと落ちていった。ついさっきまで聞こえていた微かな呼吸はもう、聞こえない。絶命しているかを確認する為に、蹴り飛ばした足の土を払いながらもう一度穴に入り、先輩は持っていた煙草で血で膜が張られた眼を焼いた。プスプスと音を立てる火口と、鼻を突くような臭い。少し前に飲み下したものを全て吐き出したくなったが、我慢した。

そこから永らく時間をかけて、一度掘った穴をもう一度埋め直す。そこいらに生えていた雑草も纏めて、スコップで丹念に掬いながら
「今度もう一度会わなくちゃいけないんだよね」と話していたことを思い出した。しかしもう、こうなってしまってはそれもできないだろう。全て、諦める他ない。
全ての作業が完了して車に戻ると、女は呑気にビューラーを使ってまつ毛を整えていた。
「遅いよ〜」と言いつつ、ここまでの場面をたじろぎもせずに見届けられる根性が恐ろしかった。血の海になったトランクを思い出して、この後車はどうなるんだろうという疑問を先輩にぶつけると、あの馬鹿と同じように穴に埋めるのだということを丁寧に教えてくれた。同行するかと確認を取られたが、この先を知る必要は無いと判断して、丁重に断った。口火を切ったのは僕だけれど、殺したのも、段取りを立てたのも先輩だ。野球の世界から永久追放された奴らに残ったものは、それまで培ってきたエネルギーとパワーのみで、有り余るその力をどこに発揮するまでもなく一人の人間にぶつけた。しかしながらそう思う僕にも、学力と体力が身に付いているとしても、それを生かせる場所はどこにもなかった。彼の鼻を殴った時、ゴリッという音とともに骨が動く感覚があった。僕もトドメを刺したことには間違いないし、奴らと同じなのかもしれない。殴った時に出来た擦り傷が今更になって痛む。血で真っ赤になったパーカーは、怖くなって幹線道路の沿道に捨てた。自分のやったことに対しての恐ろしさはあるし、罪の意識は当然のごとくある。けれども俺は悪くない。俺は悪くない。そう呟きながら、僕は家に帰った。

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