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△乙訓さんぽ△③:大山崎町を行く【後編】鉄路を横断する小径のある町

京都府乙訓郡大山崎町。小さな町なのですが、不思議な魅力のある場所です。前回はその東部、円明寺地区を中心に歩きました。とても狭い線路を横断するねじりまんぽのレンガ造りの歩道など、驚きの続くものを見ることができました。
(前回の探索はこちら)

今回は、円明寺地区から山崎駅に向けて、線路沿いを寄り道しながら歩いていきたいと思います。

まずは、今回探索範囲を「今昔マップ」で見るところから。この地域のメインストリートは、西国街道と呼ばれる、今の国道171号の旧道です。そこにもう一つ北東に分岐する道が、古道の一つである、久我畷です。そんな町に、東海道本線が敷設され、山崎駅が開設されました。昭和になって、阪急京都線が開業し、大山崎駅を開設し、その後国道171号、名神高速道路、東海道新幹線ができ、少し歩くと鉄道や道路に分断される街ができました。

今回の探索範囲。昔は東海道本線と西国街道と、
北東に分岐する細道(久我畷)くらいしかなかった場所。

■円明寺から旧西国街道を歩く

旧西国街道。緩やかなカーブに古い民家の風情ある街並み。
と思って歩いていたら、名神高速道路の大きな高架橋に遭遇。

西国街道を少し歩くと、名神高速道路に差し掛かりますが、少しここから寄り道して、気になる線路を横断する道を見つけたので、そちらに行ってみます。

■不思議な線路横断(その1)

その道は、このあぜ道のような道からアクセスします。
ちゃんと踏切があります。不思議な線路横断道路。
「佃踏切」と言う名の踏切です。
ひっきりなしに電車が通過します。北近畿方面への特急列車の回送でしょうか。
「危ない」の看板は、国鉄時代の「大阪鉄道管理局」の文字が。
踏切を横断した先には、阪急とJRの間に広がる農地がありました。
阪急の線路下を横断する小径がありました。
水路なのかもしれませんが、水は流れていません。
阪急を横断する小径と、佃踏切を見たところ。
昔の農道が分断されたので、耕作者の通路は残した感じなのでしょうか。

■天王山トンネル周辺を歩く

阪急電車の上の道を少し歩くと、名神高速にぶつかります。
ここは、渋滞の名所、天王山トンネルの坑口です。
左が拡幅前の4車線(今は下り線左・右ルート)、右が増設された車線(上り線)です。
こちらはGoogleストリートビューで見た、天王山トンネル下り線右ルート。
延長1490mだそうです。昔は右ルートが上り線でした。
天王山トンネル坑口のすぐ横にある大きな建物は、
関西電力の変電所。何のための変電所かというと・・、
阪急電鉄に電力を供給する変電所のようです。
この場所は、電力インフラにとっても要衝のようです。
名神高速の側道から、天王山とトンネル、関電の変電所を眺めます。
名神高速が拡幅されたので、大山崎町の平地面積はかなり減ったはずです。
こちらは、JR線を側道から見たところ。
電車好きにとっては飽きがこないスポットです。
側道から大山崎町の市街地を眺めます。少し先に大山崎JCTの橋が見えます。

■再び、西国街道へ。

再び西国街道に戻りました。名神の高架下へ。
名神高速では、橋梁の耐震補強工事が進んでいました。
名神高速のそばにある、大山崎町役場。
少し歩くと、久我畷と西国街道の分岐点に来ました。
古道・久我畷は、まっすぐ鳥羽作道に向かう道です。
久我畷は、大山崎から分岐して、京を目指す古道。
昔の地図で、何となく斜めに直線でつながる道が見えます。
今では大山崎JCTや国道171号付近は消滅しましたが、
新幹線の線路の向こうから、斜めに伸びる道はくっきり残ります。
間の区間も、ところどころに痕跡が残ります。
その久我畷が、この道の直線になった先の部分です。
分岐点に立つお地蔵さん
「よどふしみ」の文字が。近世以降は伏見方面との分岐点だったのですね。
西国街道にあった、東黒門跡と、魔除けである「石敢當」です。
久我畷の分岐点だから作られたのでしょうか。

東黒門付近で、明智光秀と豊臣秀吉が戦った場所だそうです。ある意味山崎の合戦の主戦場の跡地です。

■不思議な線路横断(その2)

東黒門付近から、線路をくぐる歩道がありました。
やはりとても狭い道です。
岩崎架道橋と言う名前の橋。支間3m足らずの小さな橋です。
すぐ隣に阪急電鉄の架道橋が。こちらもすごくシンプルな桁橋。
「五位川開渠」との文字が。昔は水路だったところが歩道に変わったのでしょうか?
2つの鉄道をくぐる小径です。

■山崎聖天と、不思議な線路横断(その3)

もう少し西に進むと、石段を伴った線路をくぐる歩道が出現しました。

こちらも阪急電車とJRの線路をくぐります。この道は・・、
山崎聖天と呼ばれる、観音寺の参道です、「妙音山 観音寺」と書かれています。
「聖天宮」と書かれた鳥居があります。神仏習合の名残だとか。

山崎聖天、気になるので登ってみました。

長く続く、急な石段を登ります。あれ、まだ続いている(汗)。
とても立派な山門が出現しました。
もう少し登ると、立派な本堂に到着。天王山の中腹に当たります。

山崎聖天は、幕末の禁門の変(1864年:蛤御門の変とも言う)の際に、敗走した長州の兵が立てこもった場所。その時の戦いで焼失したものを明治以降に再建したものだそうです。やはり歴史の表舞台に出る場所ですね。

参道の上から鉄道橋を眺めたところ。なかなかすごい眺めです。

さて、山崎聖天の参道を横切る鉄道の架道橋に行ってみましょう。

阪急とJRの架道橋が並んでいます。阪急の架道橋はシンプルな桁橋。
ガード下から見た参道。いやー、いい景色です。
JR線の架道橋。こちらはカルバートです。
何となく鳥居に見えるように作られているのでしょうか?
ガードを抜けると山崎聖天の鳥居と、旧西国街道が姿を見せます。
常夜燈は、嘉永年間の建立。禁門の変よりもさらに前に建立されています。
鉄道はこの参道を塞ぐように作られたようです。
旧道にある、山崎聖天前バス停と参道。
バスも本数が少ないので、ここからお参りする人は今は少ないのかも。

■不思議な線路横断(その4)

山崎聖天から、もう少し西に行ったところに、もう1か所線路横断できる道路があります。高橋川踏切です。この場所は、今年の年末年始にも訪れています。

もう一つの線路横断道路、高橋川踏切。これも車では通れません。
この水路が、高橋川のようです。
「高橋川」が、この先に続いていますが、そこは・・、
阪急電車の橋です。上が歩道、下が水路の橋のようです。
阪急電車は、この場所でJR線の下をくぐります。その立体交差地点には・・、
沢山の排水管があります。阪急の線路冠水対策の排水ポンプ配管でしょうか。

■やはり最後も、線路を横断する参道

そして、山崎駅前にある、JRを横断する踏切を通過。
こちらは、宝寺踏切。この踏切は、宝寺(宝積寺)の参道のようです。
宝寺に向かう参道につながる踏切です。

■終わりに

ということで、今回の街歩き、線路横断する不思議な構造物をたくさん歩きました。車がしっかりと往来できる線路横断構造物は、おそらく名神高速の側道と、山崎駅前にある宝踏切くらいであり、それ以外は歩行者しか通れない、狭くて不思議な構造物ばかりでした。大山崎の町は、その地理的な事情ゆえに、古くからの営みを鉄道や道路で分断されてきたこともあり、線路横断できる小径を作り、それを利用するような文化が生まれたのでしょうか。どの道も、今でも生活道路としては現役で生きている状況でした。
大山崎という町、噛めば噛むほど味が出るような面白い場所だと思います。

乙訓地域の街歩き、実家を拠点に別な場所を歩いています。次は、実家にほど近い向日市上植野付近から。鉄道少年のルーツなどを辿りますので、お楽しみに。
(続きはこちら)


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