といっても、怪談ではありません。 車で韓国は京畿道・龍仁市のゴルフ場のそばを通ると… ナビの画面に現れるお化けたちがこちら! お化けの一体一体がコースで、二つの目がグリーンだそうです。 一つ目もいますね。 ちなみにグーグルで同じゴルフ場を見ると… 虫っぽいですね。
義母は出歩くのが好きだ。うちに遊びに来たときも、ちょくちょく散歩と称して外に出ていく。 実は、ただのウォーキングではない。ヨモギ等の食べられる野草を探したり、誰かが回収所に古着を置いていってないかチェックしたりして、ただで手に入れられる物を探す「狩り」なのだが、それは本人は絶対に言わない。 ある日、義母は長女(2歳くらいの頃)をベビーカーに乗せて散歩に行くと言い出した。近くに景色の良い公園があるので、そこに行くのだろうと思い、お願いした。その間に、私はスーパーへ買い物に行った
義母が週末泊まりに来たときの事だった。泊まっていくのはしばらくぶりだった。歯ブラシは自分で持参したのだろうと思い、義母用の歯ブラシを渡しておかなかった。 ところが義母は、洗面所の歯ブラシ立ての中から、韓国製の大きな歯ブラシを選び出して、それで歯を磨いてしまった。 ちなみに韓国の歯ブラシはなぜかみな大きい。日本に帰国する度、ブラシ部分が小さい歯ブラシを大量に買い込んでいた。 それに加えて韓国の「極細毛」歯ブラシを併用していたのだが、義母は一番前にあった私のそのブラシを使ってしま
長子(娘)が生まれて、まだはいはいも始めていなかった時だったと思う。義母がうちにやってきた。 昼食の後、 「私がエギ(애기・「赤ちゃん」の方言)を見てるから、あんたは自分の用事をやっていいよ」 と言ってくれたので、お言葉に甘えて家事を片付け、その後はメールチェックなどをしていた。 やがて義母の携帯電話に着信があった。相手側の声が漏れ聞こえる。どうやら日本人と結婚して山形に住んでいる夫の姉のようだった。 今は息子の家にいる、と義母は説明し、続けてこう言った。 「エギの面倒を見て
「いい人だね」は誉め言葉。 「人がいいね」は誉めていない。 さて義母はどっちだろう? 昔語りに、義母が「昔、製薬会社で仕事していた」と話したことがあった。 私は義母がそんな専門的な仕事をしていたのかと驚いた。 「薬を作っていたんですか」 と聞いたら、 「いやいや、そうじゃなくて、社内での色々な雑用をやっていたんだ」 とのことだった。 その時の写真を、確か一度見た気がする。40代くらいだろうか、若い義母が、制服を着て立っている。時代がかった、いかにも「女子社員」「女子事務員」
日本の実家から韓国に戻ると、決まって義母は聞いた。 「お母さまお父さまはお元気だね?」 「はい」 私の返答を聞いて、 「それは良かった」 と義母は嬉しそうに言う。 日本から帰った後で会うと、必ずそのやり取りがあった。 時にはそれに、 「弟は一緒に住んでいるの?」 「いいえ、東京にいます」 「仕事してるの?」 「はい」 「結婚してるの?」 「いいえ」 といった会話が付け加わることもあった。 去年のお盆休みに、夫の2番目の姉と住む義母を訪ねた。 義母はソファーの横で布団にくるま
2001年のことだった。結婚しよう。そう決めて、夫は義母に報告した。 「どこの、どんな人?」 と訪ねられ、夫はじらしつつ答えた。 「南の方の人」 日本は確かに韓国から見て南方ではある。 義母は、 「忠清道(チュンチョンド)の人か?」 と私たちがいる京畿道の、南隣の地域を挙げた。 「いや違う。もっと南」 「全羅道(チョンラド)の人か?」 と、義母はさらに南下した地域の名を挙げる。そして言った。 「まさか、光州(クヮンジュ)の人じゃないね?私は光州人は嫌だ!!」 光州は全羅南道の
結婚して韓国に住み始めた頃。義母が家に来ると、私は緑茶や紅茶を淹れて出した。お客さんにはまずお茶を、というのが当然の習慣だと思っていた。 一回目、義母は「お茶か?」と珍しそうに言って飲んだ。日本から持ってきた自慢の静岡茶だった。 二回目の来訪には、アールグレイの紅茶を淹れた。美味しいお茶を出すのがもてなしだと思っていた。 三回目に、やや迷惑そうな顔で「もういいよ(됐어・テッソ)」と言われた。驚いて出すのをやめた。向こうを向いた義母は義姉に、 「日本人はお茶を飲む」 と言った。
黒田福美氏は言った。 「韓国人にとって、言葉は相手を自分の思う通りに動かす手段なので、自分の言葉に責任があるという意識が薄い。」 それは本当だと思う。しかし、それにしても、義母はあまりに堂々と嘘をつく。感心するほどである。義母のセルフイメージは、「わがまま言っても、嘘をついても許される、幼女」なんじゃないだろうか。 義父母が自宅を改装して、その4階に住み始めてからのことだ。夫と長女とともに、義両親宅を訪問した。 4階に居住スペースが半分しか取れず、部屋が東西に一列に並んでい
義母の食の好みは保守的で、洋食は食べないわけではないが、あまり好まなかった。 ある時、私と夫で仁寺洞(インサドン)近くで食事しようとしたら、急に義母が合流することになった。夫は私に気を遣って、お袋も一緒に食べてもいいか?と聞いた。私はもちろんいいよと答えた。当初の予定はイタリアンだったが、 「お義母さんは洋食は好きじゃないだろうから」 と、以前に行ったことがある、手頃な値段の、モダンにアレンジされた韓定食の店を提案した。 韓国料理になかなか馴染めなかった私は、その日のイタリア
義母と私と子供達とで外食した時のことだった。 注文した物が来てテーブルに並んだ。食べ始めて5分も経たないうちに、義母が言った。 「これ、食べないのか?」 義母が指しているのは真ん中に置かれた大皿のおかずで、まだあまり皆が箸をのばしていない。しかし皆が好きな物だから、 「食べていますよ」 と答えた。そのうち、各自が自分の前にある皿を空にして、大皿のおかずに取り掛かり始めた。しかし義母はまた言う。 「これ、食べないのか?」 「食べていますよ」 今、食べているところなのに、なぜそん
義母には知らせず、三番目の子の一歳の祝いの会(ドルチャンチ)を、ごく内輪で開いた。 夫は、二番目の子の時、仕事関係の招待客に、義母のことで「大変だね」と言われた。本当に恥ずかしい思いをしたらしい。二度とそういう会に義母を呼ばない、と決意するに至った。ただ、義父までとばっちりを受けて出席ができなかったのは、気の毒に思う。夫もその点については悔いていた。 この顛末を書いていて、だんだんと記憶が蘇ってきた。義母が会場で何をしたかである。 昔は、自宅に親族や近所の人を招いてチャンチ
韓国では、子供が満一歳になるとお祝いの会を開く。ドルチャンチといい、ドルは一歳、チャンチはお祝い会である。ビュッフェレストランを会場にし、司会者がお披露目を盛り上げた後は食事会、という流れだ。 上の二人の子の時は、ドルチャンチを行った。親類や友人を招き、来賓は数十人規模になる。呼ばれた側は、ビュッフェの食事代に色を付けたくらいの御祝儀を出すシステムだ。 私の親は日本にいるので呼ばなかったが、夫の両親はもちろん招待した。 二人目(息子)の時、終わってから夫は、私に愚痴をこぼした
ゴミ捨て場から物を持ってくるなと、義兄は何度も言っていたのだが、義母の行動は変わらなかった。 ある時、段ボール箱を拾って帰り、義兄には内緒で家に隠しておいた。中には小さな箱がいくつか入っていて、義母はうちでゆっくり中をあらためるつもりだった。 数日後に開けてみたところ、小さな箱の中身は全て、ただのゴミだった。しかし、この段ボール箱が義父母の家に厄災をもたらした。中にゴキブリが住み着いていて、それを知らずに家に持ち込んでしまったのである。ゴキブリは箱から家の中に移動し、卵を生み
義父母と義兄(夫の兄)夫婦は、一時期一緒に住んでいた。 義父母の自宅を4階建てのこぢんまりしたアパートに建て直し、それを期に同居を始めた。自分達は最上階に住み、下の階は人に貸した。(各階に二戸ずつ。)店子を入れて保証金を預かり、それを建築費用の返済に回すという、韓国でよくある方法を採った。 ところが施工途中で、自分達が住む予定だった4階部分を、半分に削らなければならないことが判明した。密接している隣の建物への日照を確保するために、やむを得ない措置ということだった。しかし、建築
義母と、今義母と住んでくれている義姉、そして娘と一緒に、外に出かけたことがあった。 娘はまだベビーカーに乗っている時期だった。昼ご飯を食べようと、食堂に入った。大きな蒸しマンドゥ(餃子)が売りの店だった。注文すると、薄い水色のプラスチックの大皿に、10個ばかり載せられて出てきた。具を包んで皮の両端をくっつけ、丸くしたものだ。美味しそうに湯気を立てている。 義母は娘を隣に座らせようとしたが、義姉が気を利かせて自分が義母と座り、私と娘が隣になるようにしてくれた。 義母が真っ先に、