光(河瀬直美)を見て。

映画「光」(監督河瀬直美)を見た。今思っているのは、こういうことだ。最後にもう一度、これから書くことは書かれている。だから、冒頭にある言葉は、ぼくは一番最後に書いた言葉の群である。この指に、覚えこませたい体は誰の体だろう。指で輪郭をなぞりたいのは、誰の顔だ。そのなめらかな背中からつま先までの道筋を脳裏に焼き付けたいのは、誰のものだ。自分のこともわからずに、相手を、誰かを触れたりできるのだろうか。

河瀨監督と永瀬正敏のコンビが、ヒロインに水崎綾女をむかえ、次に届けるのは人生で大切なものを失っても、きっと前を向けると信じさせてくれる迷える大人のための、ラブストーリー。やがて視力を失うカメラマンに出逢い、人生に迷う美佐子の何かが変わってゆく映画の音声ガイド(※)に焦点をあて、世界中の映画ファンに、歓喜と感動をもたらす物語が誕生した。

永瀬正敏さんが演じる、弱視の天才カメラマンに、じぶんをかさねあわせる。ぼくも写真を撮っているから。自然とそうしていた。もし、ぼくが彼なら。写真を撮る人間にとって、目は、大切な感覚器官だ。

今、ぼくは目が見える。のだけど、何回は、視角を失うことを恐れてきたことがある。もし目が見えなくなってしまったら。

ぼくは、写真を18歳のときに始める前に、絵を書いている。いつから書き始めたのかは、もはやわからない。絵も、写真も、目を使う。写真を撮るものにとって「筆は、目だ」といってもいい。どの色を選び、どこにその色を載せていくのか。何を撮るかを選択し、どうフレーミングするか。それを決定させうる大きな要因を生んでいるのは目だ。その目が、もし見えなくなったら...。

劇中、その写真家はカメラを海に投げ捨てた。「俺の心臓なんだ」と激怒しながら、強盗から奪い取ったそのカメラを、海に投げ捨てた。捨てるためにこの土地に彼は来たのだろうか。その場の衝動で、じぶんの心臓を捨ててしまえるのだろうか。彼は、その時隣にいた女性の唇に、果たして救われたのだろうか。いやそもそも、彼は救いを求めているわけではなく、ただ、そこに現れているだけなのだろうか。わからない。自分は彼ではない。なぜなら、ぼくは彼の才能に嫉妬している。嫉妬とは、対象と自分との間に距離を置く行為である。だから、ぼくは彼になれない。彼の気持ちをわかろうとするために、自分を彼に侵入させることはできなかった。

女の顔の輪郭を、指でなぞりながら覚えたのだろうか。視覚ではなく、手に彼女の顔を覚えこませたのだろうか。ぼくは、これまでそういった風に、好きになった相手の体を、じぶんに覚えこませるために触ったことはない。セックスで相手の体を感じるが、胸の肉や、唇の厚さ、指の滑らかさにに肘の凸凹に、快楽以外の何かを見出そうとしたことはあるだろうか。数年前の夏に、鎌倉で抱いたあの人の感触は手にない。なんども触れたはずの彼女の体の感覚は、ただの快楽として、その場で煙になってしまったのか。

この指に、覚えこませたい体は誰の体だろう。指で輪郭をなぞりたいのは、誰の顔だ。そのなめらかな背中からつま先までの道筋を脳裏に焼き付けたいのは、誰のものだ。自分のこともわからずに、相手を、誰かを触れたりできるのだろうか。

いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。