悲しいことにはもう私は驚かない
多くの努力は報われないのだと、私は度々言ってきた。(noteにもよく書いていた。何度もすみません。やかましいですね。)
形的に、物理的に報われる
実を結ぶ
ことがないとしても、本当に大切なことは、必ず私の中にすべてのこっている。
そう今確信して改めて思う。
目に見えて、がんばりが結果に繋がらないことが度々あったとして。
それが周りの人がたやすく叶えちゃったりして。
だからって、なんにもむだなんかじゃない。
結果よりも大切なもの、
宝ものを
私はその度に手にしてきたのだ。
泣いて泣いて泣いてきた。
これからだって。
泣く覚悟はできている。
でもその涙で今の私はできている。
できていく。
やさしい、あたたかい、寄り添えるような気持ち。
私がいっちばんにほしかったもの、それをたくさん得てきたと、ここで断言してあげよう。自分に。
がむしゃらに、日々に、周りを見ては心は動かされ、生きてきた、生きている。
だから見えなくなっていた。
私が本当にほしかったもの。
目の前の1人の気持ちに寄り添える感受性。
それを得つづけること。
目の前であなたが泣いていたら私も悲しい。
目の前であなたが笑うなら私も嬉しい。
それはシンプルだけど、一見かんたんなようで、沢山の良い悪いどちらもの経験と、感受性がとても必要なこと。
他を大切にできる、自分を大切にできるための最も強い武器。
そのために泣いてきたのだとしたら、泣くのだとしたら、私はもうそれでいい。
というか、それが最高。
なんだ、むちゃくちゃ報われていた。
よかった。
ほんとうに、単純なことが、見えなくなっていっていた。
目の前にあった。
ここにあった。
なんだ、もうあった。
大空を仰いでのびをして、
大きく息を吸ってはいて、
私はもう(がんばるんだけど、)頑張らない。
がんばるって本来素敵な言葉で、
がんばるって言葉自体を遠ざけるようなことは私はしたくなくて。
今の時代がんばらないことをただ推奨されるようなこともあるけれど、私はがんばるってすきで。
それは、ひらがなの"がんばる"かも。
ひらがなのがんばるはずっと続ける。
私にとって"がんばる"とは、
日々今あることに感謝して、前を向く、希望をかかげることがそんなイメージ。
(私なり、私だけの勝手な都合で)漢字の"頑張る"は、頑なに気を張ってという感じなので、それはもうやめる。
頑なにならなくて、だいじょうぶ。
大丈夫だった。
また今日も軽くなっていく。
あれもこれもそれも、怖くなって頑なになってまもってきたものを捨てていこう。
あるがまま、私は自由に戻っていけ。
災難とか、良くないように見えることが起こったとして、それを良きようにとらえるとかじゃなくって。
もうそれがそのままで"良かったこと"なんだ。
例えば話を戻して、報われないって思うことが起こったとして、それは実はそれが良いことで正解で。(表現が難しい)
それでよくて。それがよくて。
悲しい思いをするのがいいって言いたいのではなく、その先の光を信じれば、今のちょっとついてないことも、それがあるからよいのだと。
悲しいことは、いつもその先の未来へのプロセスでしかないから、だいじょうぶ。
ばっちり、合ってるから大丈夫。(上手く表現できない。)
だからやっぱり、安心して私は私のままであればいいんだよ、きっとね。
困難に驚かされなくていいんだよ。
たとえ人から気の毒がられても(実際されたわけじゃない)、勝ち確みたいな顔して笑ってるだけでいいんだよ。(人生勝ち負けじゃありませんが、例えば"負けるが勝ち"の諺のように。)
悲しみはきっと勝利の未来(敢えて勝利と言おう。)への通過点。
信じるか信じないかは私しだいだとか。
さあ、なにがあっても、きっとうんと素晴らしい未来へまた、歩を進めるだけ。