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中医学関係の翻訳の仕事をしていますが,それとは別に趣味として中国唐代の文化に興味があり…

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中医学関係の翻訳の仕事をしていますが,それとは別に趣味として中国唐代の文化に興味があり,中国で出版された唐代に関する本を集め,調べていました。このところその趣味とは遠ざかっていたのですが,年齢を重ねた今,その趣味でちょっと遊んでみようかなと思っています。

最近の記事

中国古代のお葬式Part3

中国古代のお葬式では 1. 初喪礼儀 2. 治喪礼儀 3. 出喪礼儀 4. 終喪礼儀 という段階を踏んで行われますが,前回ではその2.の(1)「銘旌と魂帛を立てる」についてご紹介しました。そこで今回は2の治喪礼儀(2)「弔喪と賵賻」についてご紹介したいと思います。  弔喪とは,遺族にお悔やみを述べて慰める一連の行動のことです。死者を哀悼することを「弔」,家族を慰めることを「唁」といいます。  泣く  そしてその際には,遺族もお悔やみを述べる方も,死者を

    • 中国古代のお葬式Part2

      中国古代のお葬式では 1. 初喪礼儀 2. 治喪礼儀 3. 出喪礼儀 4. 終喪礼儀 という段階を踏んで行われますが,前回ではその1.の段階についてご紹介しました。そこで今回は2の治喪礼儀についてご紹介したいと思います。  治喪礼儀とは,出棺前,家で行われる最後の行程です。 (1) 銘旌と魂帛を立てる  銘旌とは,官位と姓名を記し棺の前に立てた旗。  魂帛とは,死者の生年月日時,死亡した年月日時を書いた白絹の旗。 ① 銘旌は,出棺時には棺の

      • 中国古代のお葬式Part1

         新年早々お葬式だなんて,縁起が悪いとお叱りの向きもございましょうが,習俗として,中国古代のお葬式はとても面白いというか興味深いので,ちょっと紹介してみたいと思います。  人が亡くなると,中国では,大きく分けて4つの段階を踏んで,亡き人を送り出します。 1. 初喪礼儀 2. 治喪礼儀 3. 出喪礼儀 4. 終喪礼儀  では一つずつご紹介していきましょう。 1. 初喪礼儀 (1) 属壙  まず病人がもう危なそうだと思われると,部屋を掃除し,楽器などを片

        • 駅伝のルーツは中国にあり Part3

           今回は,どんな人々が駅を利用したのか,また駅を利用するための規則と罰則についてご紹介しましょう。 1. 駅使  駅を利用する人を「駅使」と言います。元々は戦争に関わる情報をできるだけ速やかに伝達するために,軍隊関係者が馬を乗り継ぎ乗り継ぎ戦場に向かうための施設だったのですが,時代が下るにつれ,違う利用のされ方をするようになりました。  駅を利用するのは,以下のような人々です。 ① 公文書を運ぶ官吏。 ② 京城に報告をするために向かう官員。 ③ 新

        中国古代のお葬式Part3

          駅伝のルーツは中国にあり Part2

          古代,巨大な情報伝達ネットワークの機能とは?  前回は最も多い時代で1639カ所あったという,駅というシステムの概要についてご紹介しましたが,今回はその駅の具体的な機能などについてご紹介したいと思います。 1. 駅舎  駅というのは,基本的には官員のために作られていましたので,唐代の駅館は,広々としていてとても快適だったようです。  特に往来の激しい要衝の地にある駅館は豪華だったようで,中央ホール,広間,東棟,西棟,駅楼,別棟等があり,その他に酒庫,茶庫,漬物小屋等が

          駅伝のルーツは中国にあり Part2

          駅伝のルーツは中国にあり1

           前回までは唐の都,長安についてほんのさわりを紹介してきました。その他にも宮城や大明宮,玄宗皇帝と楊貴妃が愛を語らった興慶宮などもありますし,114ある各坊の歴史の足跡をたどってみるのも面白そうです。でも今回はちょっと長安を離れ,駅についてご紹介してみたいと思います。 駅と言ってまず思い浮かぶのは,鉄道の駅でしょうか?でも元々の駅とは,軍事情報を伝達するために官員が食事をしたり,宿泊したり,馬を交換したりする施設でした。ただし現在の重慶あたりから駅伝を使って,楊貴妃のために

          駅伝のルーツは中国にあり1

          唐の都,長安へようこそ6 巨大なショッピングモール西市とは?

           ※長安の大枠を紹介してきましたので,次には宮殿の概要を知りたいと思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし私としては庶民の生活に興味があるので,今回は西市を紹介したいと思います。  長安には「東市」と「西市」という巨大なショッピングタウンがありました。ちなみに中国語を勉強している方なら皆知っていることですが,中国語で「物」のことを「東西(トンシ)」と言います。したがって買い物をするは「買東西」です。もうおわかりでしょう。この「東西」の語源は,「東市」と「西市」から来ていると

          唐の都,長安へようこそ6 巨大なショッピングモール西市とは?

          唐の都,長安へようこそ5 長安って,どんな街?

          郭中南北十四街,東西十一街。   城内は南北に14の道路があり,東西に11の道路がある。 東西方向の道路で,第四街(皇城の西の門順義門と東門の景風門を通る街道)は,幅75m。   ※皇城とは,いわば官庁街です。  第五街は,皇城南の一番目の横街で,東は春明門に通じ,西は金光門に通じ,比較的保存状態が良く,幅120m(道の両端の排水溝の内側から測定)である。  第六,七,八も比較的保存状態が良く,排水溝が残っている。道幅は,それぞれ44m,40m,45mである。第九,十街は5

          唐の都,長安へようこそ5 長安って,どんな街?

          唐の都,長安へようこそ4 開遠門・金光門・延平門・景曜門・芳林門・光化門篇

          西面三門   城壁の西側には門が3つある。  北開遠門   一番北側の門が開遠門である。  徳宗が朱泚の乱の時,また僖宗が黄巣の乱を避けたときに,この門から脱出した。  ※朱泚の乱とは,徳宗の時代,建中4年(783年)に起きた涇原兵変のことで,徳宗達は奉天に落ち延びたが,反乱軍に1ヶ月余も包囲されたので,奉天の難とも言います。  ※黄巣の乱とは,乾符元年(874年)王仙芝が起こした乱で,僖宗らは成都に落ち延びたが,反乱は10年にも及び,唐朝の滅亡を加速させたと言われてい

          唐の都,長安へようこそ4 開遠門・金光門・延平門・景曜門・芳林門・光化門篇

          唐の都,長安へようこそ3 春明門・延興門篇

          中春明門  門外には,漢代の太子太傅(太子の教育係)である蕭望之(後漢の大儒者)の墓がある。 春明門の外には旅館や灞橋がある。  ※春明門もまた,東へと旅立つ人との別れの場でした。その先にある灞橋では,やはり柳の枝を手折り,別れ行く人に手渡し別れを惜しみました。「柳」の音「リュウ」が「留」の音に通じ,「心を留める」という意味が込められていたそうです。ちなみにこのあたりには柳の木が多く,春ともなれば柳絮(白い綿毛のついた柳の種)が雪のように降りしきる美しい光景が見られるそ

          唐の都,長安へようこそ3 春明門・延興門篇

          唐の都,長安へようこそ2            啓夏門,安化門,通化門篇

           明徳門のほかに,長安城の東南西三面には,他に8つの城門があり,各城門の門道は3本である。5つの門道があるのは明徳門のみであり,それは明徳門が長安城の正門だからである。発掘により出土した大量のレンガや瓦,彩色瓦などから,明徳門には門楼があったという歴史的文献の記載が証明されている。  東啓夏門  啓夏門在南之東。  啓夏門は明徳門の東にある,明徳門から1550mの距離にあり,東西35m,南北15mで,面積は525㎡であり,3つの門道がある。  西安化門  明徳門の西は

          唐の都,長安へようこそ2            啓夏門,安化門,通化門篇

          唐の都,長安へようこそ1 外郭城・明徳門篇

            私が中国唐代の文化を調べ始めたのは,もう30年近く前のことでしょうか?  当時,日本では江戸文化への興味が高まり,NHKでは「コメディーお江戸でござる」という番組も放送され,ちょっとしたブームになっていました。  江戸時代の文化や庶民の生活を知るにつけ,「ヘエーッ」と感心したり,その技術の高さに驚かされたりもしたものです。  そんな時思いついたのが,「そうだ,中国の文化について調べてみよう」ということでした。というのも,それまで幾度となく中国の歴史に関する書籍を読んできた

          唐の都,長安へようこそ1 外郭城・明徳門篇