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唐の都,長安へようこそ1 外郭城・明徳門篇


  私が中国唐代の文化を調べ始めたのは,もう30年近く前のことでしょうか?
 当時,日本では江戸文化への興味が高まり,NHKでは「コメディーお江戸でござる」という番組も放送され,ちょっとしたブームになっていました。
 江戸時代の文化や庶民の生活を知るにつけ,「ヘエーッ」と感心したり,その技術の高さに驚かされたりもしたものです。
 そんな時思いついたのが,「そうだ,中国の文化について調べてみよう」ということでした。というのも,それまで幾度となく中国の歴史に関する書籍を読んできたにもかかわらず,身についていないというか,すぐに忘れてしまっていたからです。大まかな流れとしての歴史を学んでも,感動がないというか,身に迫ってこないから忘れるのではないか?ならば実際の庶民の生活はどんなものだったのか?どんなところに住み,どんな衣服を着て,どんな物を食べていたのか?それがわかれば,よりリアルに歴史を捉えられるのではないかと思ったのです。

 そして調べる対象として選んだのが,唐代でした。それにはいくつか理由があって,まず中国の文化の基礎は,ほぼ唐代にできあがっているということ。そして唐代の文化のありようが,日本の江戸時代に似ているということがありました。唐の時代が始まったのが618年,江戸時代が始まったのは1603年,およそ1000年の開きがありますが,共通点も多いのです。
 まず両方ともおよそ300年近く一つの王朝(江戸時代は幕府政治)が続き,比較的安定していたこと(中国の場合は安史の乱などもあり,日本ほどは安定していませんでしたが)。その安定の中で,文化が成熟し,その恩恵が庶民の手にまで届いたと言えましょう。例えば砂糖とお茶を庶民が口にできるようになったのは,中国では唐代後半,日本では江戸時代後半です。
 等など,興味深いとは思いませんか?

 そこで調べ始めたのですが,中国の古代の文献を一つ一つ当たっていくのでは,気の遠くなるような時間がかかりますし,第一文献を手に入れるのも大変です。そこで考えついたのが,手っ取り早く中国の研究者が研究した結果をまとめた本を集めればいいと。幸い私は中医学関係の翻訳の仕事をしていますので,中国語はある程度わかります。
 その結果得られたものは,期待通り,驚きと興奮に満ちたものでした。その興奮を皆様にもお裾分けしたく,筆を執ったしだいです。ま,調べるのをやめてから,だいぶ時間がたっているので,忘れた記憶を取り戻すという意味もあります。

 手始めに,まず長安城がどのような城であったかを,手に入れた本の抜粋を翻訳することで,お届けしたいと思います。原文は『増訂唐両京城坊考』です。これは清代・徐松が各種文献を元にまとめたものですが,それに更に校訂を加えたものです。これを翻訳していくのですが,序文などは割愛し,また研究者故に検証にこだわるあまり細かすぎるところも割愛します。
 ではご覧ください。
 まずは外郭城です。

 外郭城,隋曰大興城,唐曰長安城,亦曰京師城。前直子午谷,后枕龍首山,左臨灞岸,右抵灃水。東西一十八里一百一十五歩,南北一十五里一百七十五歩。周六十七里,其崇一丈八尺。『地理誌』
 外郭城は,隋代には大興城といい,唐代には長安城,または京師城と言った。南側正面には子午谷があり,北側は龍首山を背にし,左側(宮城から見て左側=東側)は灞水という河の川岸に面し,右側(西側)には灃水という河がある。……城壁の高さは一丈八尺である。

 外郭城の形は,東西が長く,南北がやや短い,長方形である。手始めに外郭城を実測してみると,東西の距離(春明門から金光門までの直線距離)は9127m(城壁の厚さを含む),南北の距離(明徳門から宮城北側の玄武門東側まで)8651.7mである。明徳門(外側)から皇城の朱雀門(南側)までは5316m。長安城の方向を磁石で計ると,東に2°傾いている。

 ※唐代の度量衡によれば1歩=1.47m 1尺=0.294m 1丈=10尺(本書の説であり,異説あり)
   したがって城壁の高さは5.292mというところでしょうか?

 南面三門,正中明徳門

 北は皇城の朱雀門に至り,南門を出れば,終南山まで80里である。
 明徳門を北上すれば,皇城の朱雀門と宮城の承天門があり,これが長安城外郭城の正南門である。

中略

 明徳門には5つの門道があり,長方形の形をしている。東西が55.5m,南北が17.5mで,5つの門道の建築形式は同じであり,各門道の幅は5m,奥行きが18.5m(レンガの壁を含む)である。各門道の間の壁の厚みは2.9mで,各門道の両側には柱の跡を示す穴があり,礎石は破壊されて現存しないが,柱の穴は各門15本ある。各門道の敷居は青石でできており,敷居の上には車の轍の跡がある。4本の轍があるので,各門道には2台の車が並んで通行できたようである。ただし5つの門道のうち,轍は両端2本の門道にしかない。また中間の3つの門道の手前で両端の門道へ迂回し両端の門道を通った轍も見られる。そこで文献と照らし合わせれば,明徳門の5つの門道のうち,両端の2門が車馬が出入りする門だということがわかる。その内側の2門は人が出入りする門であり,中央の門は,皇帝が毎年南郊に「郊祠」へ行くときや,その他に出かけるときに使われたと思われる。



明徳門
明徳門


                            つづく

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