唐の都,長安へようこそ4 開遠門・金光門・延平門・景曜門・芳林門・光化門篇
西面三門
城壁の西側には門が3つある。
北開遠門
一番北側の門が開遠門である。
徳宗が朱泚の乱の時,また僖宗が黄巣の乱を避けたときに,この門から脱出した。
※朱泚の乱とは,徳宗の時代,建中4年(783年)に起きた涇原兵変のことで,徳宗達は奉天に落ち延びたが,反乱軍に1ヶ月余も包囲されたので,奉天の難とも言います。
※黄巣の乱とは,乾符元年(874年)王仙芝が起こした乱で,僖宗らは成都に落ち延びたが,反乱は10年にも及び,唐朝の滅亡を加速させたと言われています。
中金光門
中程の門が金光門である。
出て西に行くと昆明池がある。
金光門の遺跡は,西側の城壁の北端から3300m南の,李家村の300m西北にあり,今は高さ約3m,直径約10mの丘になっている。
東西11m,南北37.5m,面積412.5㎡で,幅5.2mの門洞が3つあった。門洞および周囲には,大量の瓦,レンガ,石灰,赤土,木灰などの遺物が堆積している。
南延平門
南端が延平門である。
李光弼が亡くなったとき,大臣百官がこの門の外で見送った。
※李光弼は安史の乱の時に,多大な功績を残した武将です。
金光門の2320m南に延平門がある。東西15m,南北39.2m,面積は568㎡である。幅6.7mの門洞が3つあり,その形状や堆積した遺物は,金光門と同様だが,石柱の土台が残っている。
北面即禁苑之南面也,三門皆当宮城西。中景曜門,東芳林門。
※この三門は最も禁苑に近いので,常に衛兵が守っていて,一般の人の通行は禁止されていました。
隠太子(唐の開祖である高祖李淵の嫡子で皇太子李建成)を後の太宗李世民が殺害したとき,高士廉が吏卒を率いて芳林門に馳せ参じた。
※武徳9年(626年),李建成が,弟である後の太宗李世民に殺害されたのが,世に名高い玄武門事変です。
西光化門
西の端が光化門である。
この門を出て西北に行くと,漢代の故城がある。
出典:『増訂唐両京城坊考』
三秦出版社(中国)