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#51 ひたすら書く回【カオス回】

今日はうつとイライラが来ています。
お二人ともよくおいでなすった、いらっしゃい、などと冗談を言えるような余裕も正直なところ、ありません。
前回は祝・50回!だったというのに、間髪入れずにこういうことを書くのもどうなのか、と思ったりしましたが、「私のnoteは日記の延長」という本分を幸運にも思い出したので書き続けることにします。
そして相変わらず眠い。頭重感もある。肩と首が痛い。こちらもやはり重い。その上、鼻詰まりもありますが、これに関してはここ数年慢性化しているような気もするので、今は置いておきます。

昨晩、ピアノを弾き過ぎたのかも知れません。ピアノは心身ともに結構疲れます。
そしてフォーカルジストニアの症状が気になりました。指が得も言われぬ不快な運動、要するにキモい動きを始めてしまうので、新たに運指を考えましたが、またその作業がストレスでした。風変わりな運指は合理的でないので、覚えることも大変なのです。私は不自然の申し子になりつつあります。
昨日は、弾く喜びとか楽しさよりも「できない自分」というのにフォーカスしていたように思います。
まぁ、これは自動的なものですから、どうしようもないのですけど。自動思考がすぐに変わるわけではありませんから。
また、昨日はミスするイメージが次々と浮かび、身体が緊張していたようにも思います。
実際、ミスが多かったです。手の位置とか指の開き具合とか、そういった身体感覚がわからなくなる感じがありました。感覚のズレというか。手もぶきっちょで若干震えていたかもしれない。
その上、ムキになって弾いているような感じもありました。
これ、典型的なフォーカルジストニアになる人の行動でしょう。
困ったことに、元々私は反復練習もしまくる人なんです。今はフォーカルジストニアを発症したことでピアノがつまらなくなり、反復練習そのものをやらなくなりましたけど。フォーカルジストニアは練習できなくなる症状でもあるのです。

なぜ、ムキになって反復練習してしまうのでしょうかね。
私は固執が原因だと思います。視野がとても狭く、柔軟性が無さすぎるのです。
この「固執」というのはフォーカルジストニアを語る上でとても重要な要素であると思います。
できないことばかりにフォーカスしてしまう。
あるいは反復練習で上手くなった成功体験に固執してしまう。
音楽やピアノそのものを特別視し過ぎてしまう。
過去の身体感覚にずっと固執してしまう。
それらがなにを意味しているかというと、新しいものや変化というものへの無頓着とか、拒絶でしょう。そして、実存の不在。
過去を過剰に参照すること、未来を強引に制御しようとすること。
困ったものですね。

クラシックの場合は、正解/不正解 の要素が強いです。
それは弾くべき音が記譜されているからです。
通奏低音などは違いますが、基本的には譜面に具体的に書かれている音を奏します。
テキトー要素が希薄なんです。ちゃんとし過ぎているんです。
もっとテキトーでいいと思います。
簡略化とか、即興的な音の追加は作曲家だけの特権みたいになってしまっている気がします。
もっと気楽にやればいいのでしょうけど。権威は強いのです。
それが好きならばいいんですけど、私は窮屈です。それから、クラシックには適正も相当あると思います。
かといって、ジャムみたいなのは退屈なんです。10分もやれば満腹です。まったく、下手糞なくせにわがままなやつですね。
もっと寛容になりたいですね。慈悲が私のキーワードです。
本noteでも慈悲という言葉を多用しているのはそういう理由からです。
真実を知る(到達1)→厭世的になる(失望)→それを受け入れる(許容)→慈悲を獲得する(到達2)
こういう流れを私は感じています。厭世的な失望段階で終わると、自分も辛いし、他者も不快にさせてしまいます。これでは単なる斜に構えたウザいやつです。
一皮むけないといけないんです。昨日、庭を眺めていたら、ダンゴムシも脱皮していましたよ。それと同じです。(?)
現実を知るということは辛いことです。映画マトリックスでもそのように描かれていましたよね。
慈悲を獲得したらもうバブルというか、無敵モードでしょうな。利己利他、すべてを満たせるでしょう。

今日はタイピングのミスも多いですね。ご乱心。ガンガン打って、バシバシ打ち直してます。バックスペースの濫用、ダメ、ゼッタイ。
時間の経過が早く感じます。でも何故だか満たされないし、焦っている。
そういえば、病気不安はそこまで強くないですね。それは幸い。
さて、どこで筆を置けばいいのか、本当に解りません。
ただただ、無価値な文字が増殖して画面上を覆っていくような、そんな風に感じている自分がいます。
ただ思いつくままに書いていますが、何を考えているのかの整理に役に立ちますね。まぁ、それって要するに日記の効用なわけですが。無駄無駄無駄無駄って言われてしまいそうなことばかり書いていますね。なんだかなぁ。
このように、ただひたすら思ったことを書き殴ってできた文章を目にすると、普段読んでいる記事が如何に洗練されているか、構成・整理されているのかが身に染みてわかりますね。
同時に人は構成とか整理とかいうものが得意で、そうやって生き延びてきたのだなぁという感慨もあります。
が、それらの能力は差別をも生みます。困ったものです。
自分の力に振り回されている感があります。
私も例に漏れず差別感情を持ちますが、差別的行為は愚かで恥ずべきことだという感覚がありますから、それを野放しにすることはありません。
恥も役に立つんです。私は無知ではありますが、無恥ではありません。それに関しては結構自信あります。自信のあるひきこもりです。誇り高きひきこもりです。ベジータみたいですね。私は王子ではありませんけどね。
しかし、この恥の意識も強く働き過ぎると、疲れてしまいます。とりわけ対人緊張として顕在化することが私の場合は多いです。交感神経が一所懸命に働き過ぎちゃって、手汗脇汗、やばいっす。供給力やばいっす。まさに生産性の鬼。血圧も高くて、健診で引っかかることもあります。でも、血圧が高くても病気不安にはならないんだよなぁ。謎ですね。独自のトリガーがあるのでしょう。
まぁ、そうした恥の感覚が私にとって引きこもる圧力になっていることは間違いありません。でも、性格だからなぁ。
恥が無い奴とかただのバカですからね。で、バカほどよく動きます。
あぁ!こういうのが無慈悲だというのです。差別感情も露になっているではありませんか。匿名による気軽さは悪い意味での自由を人に与えてしまいます。これも負の側面がありますね。アルコールで気分が良くなって無礼になるやつと同じです。やはり自由も中庸を目指すのが良いのでしょうね。
それで、私は本当に未熟であると思います。
子供のまま大人になってしまった感があります。
私は成長のプロセスをすっ飛ばしてしまいました。
だから地道にやりなおさねばなりません。
近道があればその道をいきますが、いまのところそれは見つかりません。
近道を探して人生を終えるのも滑稽ですから、目の前の道を行くのが最良であると思います。
今度こそ、筆を置きましょう。なんだか気味の悪い記事になってしまいましたね。いや、何度もそう思ったんですよ、書きながら。
でも、手が動いたので、それを尊重してやることにしました。ただそれだけです。
思考停止しているときこそ、本音が出てくるような気もします。
だから、いいのかもしれません。
格好つけない。あるがまま。カオス。
あぁ、また筆を置くタイミングが解らなくなってきました。私の意志は弱いです。筆を置くと先ほどまで言っていたのに。前言撤回、早すぎませんか。
終わりが怖いのか。
もっともっと散らかしたいのか。
止まるのが怖いのか。
動き出したら止まらない、こういうことありますよね。
慣性というやつです。惰性ともいいます。それらを利用しているわけです。
その勢いで人生を完走しましょう。それが楽でいい。
楽してください。私も楽に生きたいと思います。
しかし、困ったもので、私は「平均的な人生」という慣性を殺してしまいました。中学生の頃だったような気がします。私は拒絶するセンスに恵まれているのでしょう。
だからひきこもり癖があるのです。
しかし、習慣という慣性もまた強力な自然の摂理のようで、慣性Aを放棄しても慣性Bが適応されます。
それで、「平均的な人生」ではなく「ひきこもる人生」という慣性が私に適応されてしまいました。ひきこもりの理由や原因は人それぞれですが、私のひきこもりは惰性です。
それが一番楽なんです。
親が死ねば、また変わるでしょう。
その時一番楽な方に流れていくはずです。
私は単純ですから。その使い方をそろそろ攻略しろよ、と思います。
最近、自分の身体が自分のものでないような感覚が強まっています。
あぁ、それは制御できないものなのだ、という経験の蓄積がそう思わせているのかもしれません。
当たり前のことなのですが、私は自分のことを制御できると思っていました。というよりも信じたかったのだと思います。
でも、自律神経が典型ですが、コントロールできますか?ほう、呼吸で全てコントロールできるのですか?それともサプリメントでコントロールを得ますか?人間とは健気なものなのですね。
そこにある食べ物を食べたら、自分の身体はどう反応しますか?どのような効果が得られますか?
とどのつまりは、わからんのですよ。少なくとも私はね。
謎なんです。エニグマティック。
あぁ、私は正気ですよ。決して心配しないでください。
ただ、いつもとは一味違うぜ。
それは思考の余地を挟まないようにしているだけです。
頭の使い方が違うんです。
それから少々寝不足というか、疲れていますから、思考停止ぎみなのです。
だから自ずとコントロールの篩を通過して感情が吐き出されるんです。
先ほど、「決して心配しないでください」といいました。
もしも本当に心配してくださった方がいたなら、それは素晴らしい慈悲をお持ちの方なのでしょう。尊敬します。私もそうなりたい。
いま、突然文章を終わらせたらどうなるだろうか、とふと思いました。
ただ奇を衒っている感じがひどく滑稽でつまらないと思いました。
つまり、まだ理性によるコントロールは生きている。
ただ、基準というか、篩の目の粗さが普段とは違うだけであって。
全て開放的になっているわけではありません。そんなの当たり前ですよね。
またしても無駄無駄無駄・・・・な表現です、すみません。
オラオラオラオラオラオラオラオラオラ、というように「オラ」と連続してタイピングするのは結構難しいものですね、是非皆さんもやってみてください。
と、このようにして、感じることってたくさんあるわけです。
でも、普段はそれを自己検閲して、書かなかったり話さなかったりするのです。
それもいいのでしょう。でも、小さい幸せって大事ですよね。
立派なものを拵えよう、などという身分不相応のことを考えるものだから辛くなる。
身の丈に合ったことをする、これはマジで大事です。
ちょいちょい私は口調がチャラくなります。
軽薄も私の本性です。これは間違いない。
でも、それが厭だったりもするのです。
なんというか、矛盾していて、それが上手く飼いならせていない感じがします。
もう子供ではないのですから、いい加減に手懐けたいのですが。
しかしながら、先述したように、自己をコントロールすることは出来ないんです。何故なら、人間は自然の一部だから。
お、今思い出したものがあるのですが、それは書きません。出し惜しみしちゃいます。
時期尚早という感じがするからです。この垂れ流しの回は読者も少ないでしょうから、書きません。
あれ、案外、理性ちゃんとしてますね。働き者め。理性コノヤロー。


というわけで、お送りしたこの書き殴りカオス回。
一体全体、誰が読むのでしょうか。
私ですら見返さないかもしれません。

そばが食べたい。
あ、念のためにもう一度言いますが、私は正気ですからね!
ほなさいなら!


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