#83 暴力性を飼いならすヒント
人が持つ暴力性についてぼんやりと考えていたら、以前瞥見した内田樹の記事を思い出しました。
特に気になった箇所を引用してみます。
どんな人であれ暴力性・攻撃性を持っていて、それは抑圧しても漏れ出てしまうと内田は述べています。これは誰もが首肯せざるをえない事実でしょう。
自分よりも下位の人間というのは「弱者」と言い換えられると思います。つまり、より弱い者へと暴力性の矛先は向けられることになりますね。何故なら、それが一番楽だからでしょう。重力とか圧力のようなものだと思います。それらが流れに逆らうことはありません。強者を攻撃しても返り討ちにあう可能性が高いわけですから、動物である人間がそんなことを絶対にやるわけがないのです。自然は無駄を嫌います。上に刃向う行為というのは、理性レベルを極限まで洗練させた者だけに認められる稀有な例だと思います。どだい自然とは思えません。
綺麗事では済まされない「現実」を認めることは重要ですよね。自分の暴力性のはたらきを察知すること。つまりメタ認知です。因みに、その現実に気付かない者・疎い者にとっては無知の知とも言えますね。
また、暴力性を飼いならす方法を尋ねられた内田はこう答えています。
彼自身は既に対策をとって来ているわけです。流石ですよね。大人です。
これは何かというと、積極的・能動的な「実践」だということに気付きます。
要するに「アウトプット」です。
結局、自分の道は自分で模索するしかないのでしょうね。これは自律/自立そのものではないか、と私は思います。
自分の取り扱いに熟達すると内田のようになっていくのでしょう。
私も成長したいものです。
私は、昔メルヴィルの「白鯨」を読んでいて、思ったことがあります。
人はこうした形で暴力性を発散すべきなのではないか、と。
捕鯨というのは、賃金を得るためという利己的な側面もありますが、同時に利他的な行いでもあります。人が生きる上で必要な食料や燃料、道具を作るための資源といったものが取れるからです。何はともあれ漁師はしっかり社会貢献しています。そこに疑いの余地はないでしょう。
ただ、それだけでは終わりません。
それと同時に、人が裡に抱える暴力性・攻撃性といったものを消化できるというあまりにも大きな副産物が得られます。
ただいたずらに蠱惑的な暴力に耽るのではなく、漁(労働)を通じて利他と結びつけることができるのです。こうしたことは合理的でとても良いと思います。正に、私のnoteで以前述べた「利己と利他の交差点」です。これこそ「経済」の本質である、と私は思います。
現代人はあまりにも「生きること」から疎遠になってしまっています。
動物の肉や革を得るための狩猟や、害獣や害虫の駆除といった行為を通じても暴力性の平和的行使ができると思います。ハラスメントに依らずとも暴力性を消化する手段はあるということです。
コンクリートに包囲された社会においては、暴力性の発散の機会が少なすぎるのです。
更に拍車をかけるように、そこに住む人々は、暴力性の制御があまりにも下手です。
それが数多のハラスメントを生み出します。ハラスメントの多さは幼稚で未熟な社会であることの証左なのですね。
いじめもそうですね。いじめは紛う方なき暴力であり、本質的には人殺しのようなものです。「いじめ」ということばが事を矮小化していると個人的には感じられてなりません。残念なことです。
それは「普通に」犯罪ですからね。法も倫理も踏みにじる行為です。人の行いではないんです。正に外道ですね。
いずれにせよハラスメントなどという卑俗な形式でしか暴力性を行使・発散できないことが問題なのです。
今回のまとめ
誰もが暴力性(攻撃性)を持っている。
暴力性を抑圧しても無駄である。何故ならそれらは漏洩するものだから。
抑圧された暴力性は弱者を攻撃する。それがハラスメントの正体。
まずは自分の持つ暴力性を認めること。そこがスタート地点。
暴力性を飼いならす方法は様々。例えば、作品制作や宗教の実践、スポーツや武道の実践などが挙げられる。
先述の内田が挙げた例は全て「アウトプット」行為である。
標準的な「暴力の制御法」はない。自分で考え、実践する必要がある。
※補足
捕鯨に関しては、国際的な風当りは厳しいものがあるかもしれません。私は捕鯨推進論者でも廃止論者でもありませんから、誤解無きよう、よろしくお願いします。一例として出したに過ぎませんので、どうかご理解ください。
更に言うと、捕鯨を含めた狩猟よりも、動物を家畜化して安定生産+利潤追求を図る(一部の)畜産業やペット産業の方が道徳的な罪はずっと重いと感じています。他の動物の生殖をコントロールするという発想が何より不気味です。最終的には理屈じゃないんです、生理的な感覚です、すみません。
私はアニマルライツ派は些か過激すぎると感じてしまうのであまり共感できないのですが、動物を扱う産業の姿勢にはかなり懐疑的です。人と動物の関わり方・共生のありかたを考えることはとても大事なことだと思っています。人としてより善くありたい、というのもまた人の欲望ですから致し方ありませんね。