清元由美子

発話のない自閉症の息子に、言葉の使い方を教えてきました。息子がどんな風に学んで、育って…

清元由美子

発話のない自閉症の息子に、言葉の使い方を教えてきました。息子がどんな風に学んで、育ってきたかを思い出しながら書いていこうと思います。息子に関わった人たちに感謝を込めて、これから関わる人たちによろしくお願いしますの気持ちを込めて。風景写真は次男、看板等は長男撮影のもの。

最近の記事

はんぶんぶんこ、はじめました

この家に住んで20年。自分の残りの人生を考え始め、障害を持つ息子の将来に向けても動き出さなくてはと思い、選択肢の一つとして、息子が自宅で暮らし続ける道を探っていこうと思った。そのためには息子の存在を知ってもらうことと、この地域が互いに気にかけ支え合うようになってほしいと考え、自宅の一室を開放して誰でも立ち寄れる場所にすることを思いついた。 1階の部屋がずっと物置になっていたので、その部屋に本を置いて来てもらうようにしたらどうだろうか。不用品処分の業者に頼み、部屋を空っぽにした

    • 「すーべりだい」と出会う

      昨年文庫を始めたので、新しい絵本のことも少しずつ知りたいと思い、元保育士さんから「子どもたちに大人気だった」と教えてもらった「すーべりだい」(鈴木のりたけ・作、PHP研究所)を借りてきた。 読んでみると、すべり台の疾走感があふれていて面白い。あきひろは反応するだろうか。毎晩絵本を読んでくれる時間に、私からリクエストして読んでもらった。 今でもすべり台が好きなあきひろは、興味を示して読んでくれた。初見なので文字を丁寧に追っていく。「すべりだいー」「する する べぇり べぇり 

      • 「共に」と「学び」は両立できるのか(仮)

        あきひろが入学した高川小学校では、当時(1998年)「取り出し(障害児学級在籍の児童が別室で授業を受けること)」はしないという方針だった。豊中市の障害児教育実践編に書いたように、その環境であきひろが学べるのだろうかという疑問を持っていた私は、担任と障担にIEP(個別指導計画)を作ってほしいと頼んだ。その頃はまだIEPはあまり知られておらず、”個別”に引っかかる先生に対し、「みんなと同じ通知表では、あきひろはずっと全部に最低評価が付くだけで何を学んだのか全くわからない。あきひろ

        • 知的障害児・者の学びについて考える

          noteの以前の記事「豊中市の障害児教育 実践編」「なぜ日本の学校は障害児を分けるのか」に続いて、知的障害児・者の学びについて考えていきたいと思う。 というのは、今年(2023年)”「障害」児・者の生活と進路を考える会”が主催する「子育て・教育講演会」に参加して、豊中市が掲げる「ともに学び、ともに育つ教育」がこの50年もの間全く進歩していないように感じられたからである。「豊中市の障害児教育②~原学級保障から原学級での学びの保障へ」で書いた”原学級での学びを保障しつつ、個々の子

        はんぶんぶんこ、はじめました

          なぜ日本の学校は障害児を分けるのか

          今年2022年9月、国連が日本政府へ障害児の分離教育を中止するよう要請した、というニュースを友人が教えてくれた。それに対し日本の文科相は、現行の特殊教育をやめるつもりはないと答えていた。この意識の隔たりは何なのだろう。 1965年生まれの私は、障害児は特殊学級か養護学校(当時の名称)へ行くのが当たり前の中で育った。そのことに疑問を持たなかったのは、自分たちが受けている授業が、障害を持つ子が学ぶには難しいから仕方がないことだと思っていたのだが、そもそもそのことが間違っているの

          なぜ日本の学校は障害児を分けるのか

          豊中市の障害児教育 実践編

          校区の小学校入学 ここでは長男あきひろの体験を通して、私の個人的な思いを書いてみたいと思う。 3歳から1年半通った通所施設の後、地域の保育所へ行くことを決めた時は、保育士さんが現場の体験から、障害をもつ子の成長を実感していたことが伝わってきたので、迷いはなかった。(健常児と共に 高川保育所へ) 小学校も、保育所や近所の子どもたちと同じ校区の学校へ行かせたいと思っていたが、よその地域とは逆に、支援学校を選ぶことを許さないような強い力があることに、少し違和感を感じていた。

          豊中市の障害児教育 実践編

          豊中市の障害児教育②~原学級保障から原学級での学びの保障へ

          はじめに 1952(昭27)年、豊中市の小学校で初めての特殊学級(現在の特別支援学級)が置かれ、その数が増えていくなかで、1973(昭和48)年、重度重複障害のため就学猶予・免除を受けていた子どもたち全員を、市内の小学校で受け入れるひろがり学級が開設された。(豊中市の障害児教育①~だれひとり取り残さない教育とは) その後長男あきひろが入学する1998(平成10)年までの間に、豊中市の障害児教育はどのような経緯をたどったのか、それを調べるために資料を探して豊中市立図書館へ相

          豊中市の障害児教育②~原学級保障から原学級での学びの保障へ

          豊中市の障害児教育①~だれひとり取り残さない教育とは

          はじめに 長男あきひろの小学校時代のことを、他の地域、とりわけ東京の人に話した時にまず、障害児学級ではなく、障害児学級の担任が普通学級にいるあきひろに付いて授業を受けていたということに感心される。あきひろがいた頃から20年以上経ち障害児が普通学級で学ぶことが進んでいるものと思っていた私は驚き、私たちがやってきたことが後に繋がり広がっていないのはなぜか、豊中市の障害児教育がどのように起こってきたかを知りたいと思った。 運動の初めから関わっていたという元教師の方から、お話を聞

          豊中市の障害児教育①~だれひとり取り残さない教育とは

          原因ー結果から「どうして」を教える

          1998年 5月 勉強というと、訊かれたことに答えられるということだけではないが、質問に応答できることは、学びの基本の一つであり、会話ができるためにも大事なことだと思う。 英語の場合は質問の中に答え方が含まれているが、日本語の場合は、「はい・いいえ」で答えるのか、事柄を答えるのか(文を読んで意味を理解すること②)、ということがわからないと答えられない。 子どもに向かって、「これなあに?」とリンゴを差し出したら、「りんご」と答えたとしても、「何色?」と聞いても「りんご」と

          原因ー結果から「どうして」を教える

          イントラバーバルー言葉に対して言葉で答える

          1998年1月 家庭での療育を始めるで、まず目標にしたことが、、言葉に対して言葉で答えることだった。 言葉を聞き取ること①で「鼻の長い動物は?」と聞いて「ぞう」と答える練習をやったが、日常の会話に近づけるためにそれをさらに広げて、文字での理解、主に「人」「場所」「こと(もの)」の分類(文を読んで意味を理解すること②)、文字ではなく絵を見てそれを言葉に置き換えること(絵(写真)を手がかりにして会話をする/動作の命名)、文字や絵がなくても音声の言葉を聞いて意味を理解すること(

          イントラバーバルー言葉に対して言葉で答える

          言葉を聞き取ること②

          1998年4月 あきひろは豊中市立高川小学校に入学した。在籍は養護学級(現支援学級)だが、全ての時間を原学級で過ごし、養護学級担任の先生があきひろに付いた。他に養護学級籍の子どもがいなかったので、登校してから下校まで先生が一人付いてくれるという、恵まれた状況でのスタートだった。 とはいえ、保育所からさらに大きな集団に入ったあきひろの混乱は大きかった。帰宅すると疲れた様子で、レッスンも新しい課題をやろうとすると、これまでなら「おしまい」と言うところを、頭を左右に振るので心配

          言葉を聞き取ること②

          ひとりで散髪に行くまで

          あきひろは3歳頃から散髪を嫌がるようになり、当時はまだ少なかった、子どもにビデオを観せながらカットをしてくれる美容室に行っていたが、ある日泣いてどうしようもなくなり、「無理なので帰ってください」と言われてから、家であきひろが寝ている間に私が切っていた。 特にきっかけがあったわけではないが、あきひろが5歳を過ぎた頃ふと、大人になって大きな体で嫌がるのを床屋に行かせるのは大変だろうなと思い、子どものうちから練習した方がいいかもと思い立った。 まずは家で鏡の前に立たせ、「あっく

          ひとりで散髪に行くまで

          絵(写真)を手がかりにして会話をする/動作の命名

          1998年1月 相手の言葉を正しく聞き取って理解し、答えるということができるように、課題を細かく設定してやってきた。それを日常の場面でもできるために、知育絵本を使って、健常の子どもができていて、あきひろができないことを探していた。 絵を見ながら、「ミッキーちゃんは何をしているの?」「〇〇はいくつあるかな?」「~の時は何て言うの?」と様々な質問をすると、「いくつ?」と聞かれた時にエコーしたり、その次の質問の「何?」に対して、数を数えて答えたりした。 質問に正しく答えるため

          絵(写真)を手がかりにして会話をする/動作の命名

          見えるから知っているへ

          他者との関わりのレッスンで、自分の知らないことを知っている人に聞きに行く、その情報を知らない人に教えてあげる、ということをやってきた。他者の視点で、自分が見えているものと、他人に見えているものが違う、ということを教えてきた。 そこから、誰が情報を持っているか、誰に聞いたらいいかがわかるということを目標にして、まずは見ていた人が知っている、ということを教えることにした。シルバニアファミリーのウサギ人形を使って、あきひろを第三者の視点に立たせた。 〈導入〉 ウサギのお父さん

          見えるから知っているへ

          重度の知的障害とは

          2020年12月 あきひろは20歳の時(2011年)に障害の区分がA(重度)からB1(中度)になった。知的障害だけだと重度でなければ、受けられる支援はとても少ない。20歳の時に受けた検査や面談の結果から中度になったという説明を受けたが、納得がいかなかった。 人は教えられなくても、言葉を獲得して学んで生きていく。言葉を獲得できず、自分の意思が伝えられないということは、人にとってとても大きな障害ではないだろうか。社会の一員として、言葉を発しない人を排除するのではなくて、言葉を

          重度の知的障害とは

          レッスンを遊びにアレンジ

          1998年3月 豊中市では統合保育を積極的に進めていたので、その基本となる考え方を保育士や親は学ぶ機会があった。その考えとは「子どもは大好きな母親の真似をするものだから、母子関係が親密になれば母親を真似て喋りだす」というものだった。目が離せないので、健常児よりもずっと長い時間私と一緒にいるあきひろが、それで話せるようになるとは思えなかった。 保育所の2年目、最終年度の5歳児クラス(きりん組)になり、加配のH先生は引き続き担当してもらえることになり、クラス担任はK先生に変わ

          レッスンを遊びにアレンジ