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豊中市の障害児教育②~原学級保障から原学級での学びの保障へ

はじめに

1952(昭27)年、豊中市の小学校で初めての特殊学級(現在の特別支援学級)が置かれ、その数が増えていくなかで、1973(昭和48)年、重度重複障害のため就学猶予・免除を受けていた子どもたち全員を、市内の小学校で受け入れるひろがり学級が開設された。(豊中市の障害児教育①~だれひとり取り残さない教育とは

その後長男あきひろが入学する1998(平成10)年までの間に、豊中市の障害児教育はどのような経緯をたどったのか、それを調べるために資料を探して豊中市立図書館へ相談に行った。最寄りの分館ではネットのデータベースの検索のやり方を教えてもらい、データになっていない資料は中央の岡町図書館に申し送りをしてくれ、私が訪れた時には何冊かそろえて取りおいていてくれた。図書館の方から、だいたいのことがまとめて書かれていると勧められた「インクルーシブ教育の源流」(二見妙子著、現代書館)と豊中市史第十巻学校教育を借り、元教師の方のお話と合わせて、ひろがり学級以後の流れをまとめてみた。

校区へ帰す運動

ひろがり学級は市内3校に設置されていたが、通学が困難な子どもが通うには遠く、なぜ健常の子どもと同じように住んでいる校区の学校へ通えないのか、という疑問が起こってきた。

当時、障害児を校区へ帰す運動は、大阪府下全域に広がっていたという。しかしそれは、これまで全員就学を目指して養護学校の設置を求めてきた運動と矛盾し、教師たちは大きな葛藤を抱えることになった。それでもひろがり学級開設までの道のりと、開設後の実践があったからこそ、豊中市の教職員は、その矛盾と向き合い、これまでの方針を翻してでも、校区へ帰す運動を進めることに対する信念を持っていた。

全員原学級へという思いを持ちながら、教師の人数を確保するために、養護学級を設置するという戦略は現実的であり、その後現在に至るまでの持続・発展につながったのだと思う。そしてその教育運動が、教育行政を動かした。

豊中市障害児教育基本方針制定

1978(昭和53)年に制定された豊中市障害児教育基本方針によって、国の分離教育制度の拘束を一定回避することができるようになった。それは1979(昭和54)年に養護学校が義務化された後も、豊中市では、障害を持つ子どもを校区の学校へ入れたいという親の願いを拒否できないことが、制度として認められたということだった。

原学級での学び

1978(昭和53)年には、市内のほぼ全小学校(1984年に41校全て)に養護学級が設置され、校区で受け入れる体制ができた。どんな障害の子でも希望すれば校区の学校に通うことができる。その後ひろがり学級は発展的に解消された。

教師の人数確保のための養護学級設置なので、実際には障害のある子も原学級にいて、そこに養護学級担任の教師が付いて授業を受けるという方式(入り込み)をとっていた。各小学校で年度始めに障害児教育方針を決め、親の願い、教師の願い、本人の願いを聞き、具体的な授業の進め方を決めていった。

原学級での学びを保障しつつ、個々の子どもに合った支援のあり方は大きな課題であり、現在まで模索が続いている。

(参考図書)
「インクルーシブ教育の源流」二見妙子著 現代書館



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