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豊中市の障害児教育①~だれひとり取り残さない教育とは

はじめに

長男あきひろの小学校時代のことを、他の地域、とりわけ東京の人に話した時にまず、障害児学級ではなく、障害児学級の担任が普通学級にいるあきひろに付いて授業を受けていたということに感心される。あきひろがいた頃から20年以上経ち障害児が普通学級で学ぶことが進んでいるものと思っていた私は驚き、私たちがやってきたことが後に繋がり広がっていないのはなぜか、豊中市の障害児教育がどのように起こってきたかを知りたいと思った。

運動の初めから関わっていたという元教師の方から、お話を聞かせてもらえることができた。1980年に豊中市教職員組合が発行した「豊中の教育」という本を持ってきてくださり、当時のことを思い出しながら話してくださった。そのお話と「豊中の教育」に書かれていることから、1990~2000年代に豊中市の小学校で教育を受けた障害児の親として、その歩みをまとめてみたいと思う。

1970年 障害児の問題を教職員全体の課題に

1960年代、安保闘争や全共闘といった学生運動が起こっていた時代の中で、教育の場においても、権力側からの一方的な管理・支配に対して、憲法や教育基本法にある平和と基本的人権、民主主義を守ろうという機運があった。

人間として生きる権利、教育を受ける権利、人権を尊重するという点からも教育全体の問題であるとして、豊中市教職員組合(以下市教組)は先にあった同和教育の運動方針の中に「障害」児教育の項目を盛り込んだ。

二、「障害」児教育
「障害」児の生活や、学習権を保証するたたかいをぬきにして、民主教育の確立はない。(1970年運動方針より)

これは1952年に特殊学級(現在の特別支援学級)が設置されてから、担当者任せにされていた障害児の問題を、全職員の課題にしようというものだった。

1971年 教育委員会に対し要望から要求へ

10月、市教組は「障害」児教育委員会を発足、市内の特殊学級の現状を調べ、豊中市教育委員会に向けて、特殊教育の担任者会が要望書を提出、11月に市教組が要求書を提出して対市交渉を行い、”要求に対し協議または検討する、学級の設置については府の教育委員会に要望する”といった前向きな回答を引き出した。

この年、国の中央教育審議会(中教審)は、”ひとしく能力に応じた教育を受ける機会の保障”するため、答申の目玉として「養護学校の義務化」を打ち出している。(1979年に養護学校が義務化された。)

1972年 不就学児親の会発足と急速な進展

この時点ではまだ市教組も「養護学校の設置」を運動方針の重点にしていた。だが、障害児の問題を特殊教育の担当者の要望ではなく、全職員の課題としたことで、「特殊教育」さえ受けられなかった就学猶予・免除児の存在が最重要課題として浮かび上がってきた。しかし学校側は学籍のない子どものことは人数すら把握しておらず、教師たちは夏休みに教育委員会の名簿をもとに一軒一軒訪問して回った。「豊中市の教育」にはその中の16家庭の記録が載っている。それを読むと、その時教師たちが不就学の子どもと家族に会い、言葉を交わしたことがその後の運動の揺るぎない信念になったことがうかがえる。

8月7日。その家庭訪問をもとに市教組は対市交渉を行い、年度内は予算を伴う対応はできないが、次年度は最重要課題として予算をつけるという回答を得た。

8月30日。市教組は、具体的な要求は父母と共に作り上げて実現するという方針から、親の会の第一歩として、教育委員会主催の研修に父母を招いた。「地域に開かれた養護学校・与謝の海養護学校」の副校長の講演だったが、今まで何の教育の機会を与えられなかった子に、突然地域の学校へと言われてもそのイメージができていない親から要求が出ることはなかった。

その反省から教師たちは、2学期中の夜間、休日を使って2か月かけて再度家庭訪問を行い、二度目の親の会が開かれることになった。

11月20日。第2回不就学児親の会が、教師と市職員も含めて行われた。その時にあるひとりの親が言った言葉に私は胸を打たれた。

「こういう場へ出てこられない人のためのものを先ず優先して方策を考えて行かなければ、実際には運動して行けない。」

その思いから、不就学児親の会へ出てこられない家庭への訪問に親の会の父母も同行し、この運動は急速に進展していく。

1973年 3月31日の対市交渉

1月。教師と親の家庭訪問によって、市の教育委員会の名簿からも漏れていた7名を探し出し、「不就学児親の会」が正式に組織化された。これらの活動を通じて、親の中から「なぜうちの子が校区の学校に行かれないのか」という、ごく当たり前の疑問が起こり、教師たちの間でも養護学校の設置を求めるという意見はなくなっていった。

2月23日。不就学児親の会と市教組が、初めて合同で対市交渉を行い、教育委員会から”養護学校ではなく、市内の学校に不就学児たちの教育を保障するための学級を設置する”との回答を得た。しかし、不就学児34名全員の保障がされないことを不服として、3月9日、10日の両日、就学猶予・免除願いの一斉取り下げ(20名)を行うという行動に出た。

そして34名全員の就学保障を求めて、3月17日、24日と交渉を重ね、31日「障害児の就学については、全員完全に保障されなければならない。」という回答を勝ち取った。

5月14日。学級の工事が間に合わなかったため、ひと月遅れてS小学校で4学級19名の子どもたちの入学式が行われた。この学級は、これが今後ひろがっていくようにとの願いから「ひろがり」学級と名付けられた。10月にはN小学校に4学級、翌1947年度にはT小学校に3学級が開設された。

元教師の方はお話を終えて、「入学式の時に子どもを抱いて見上げた青空を、今でもはっきりと思い出せる」と言われた。この記録を何度も辿った私にも、その晴れやかな空が見えるような気がした。


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