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25歳になったけれど、まだ夢を追いかけていてもいいだろうか。

25歳になったが、まだ夢を追いかけていてもいいだろうか。

2019年の年の瀬から、2020年の年明けにかけて、とてもいい天気の日々が続いた。私は、仲の良い女友達や、叔母とともに食事をしたり、同級生たちとパーティをした。
まぶしい太陽の光が、美しい彼女たちの顔を照らしている。彼女たちとは様々な話をしたが、そこには恋愛や結婚や出産、子どもの話などがとりとめもなく続く。

私は新しい年が明けるのと同じくらいに、25歳になった。けれど誕生日は、全然嬉しくなかった。世間でいうところの、”アラサー”という領域に自分が来てしまったのか、という、猫背になりそうなくらい重い世間の認識が背中に載せられたような気がしたからだ。

もちろん、そんなことを誰も私に直接言う人はいなかった。でも世間からの、「年齢で刻んで人を判断しようとする乱暴なカテゴライズ」みたいなものは、私を苦しめはじめている。そして、私の頭のなかの目立つ部分に大きく掲げられているのは、「夢を追いかけるべきかいなか」、という奇妙な二文法の問いだ。もっと詳しく言えば、

「多くの人がすでに家庭を作ったり身を落ち着けるフェーズに入ってきている段階である(ように見える)のに、私はそんなこと全く考えず、自分のやりたいことが身を結ぶ保証があるともわからないのに、(アラサーになったのに)そして”親孝行”になりそうもないのに、それを追い求めていていいのだろうか」という問いである。


とりわけ、会社にいると、30、40代の人たちで結婚やこどもについての話題が飛び交っている。私より何年か上の(シングルの)女性の先輩たちは「いい人いないの」とか「合コンしたことないの」とか(主に男性社員に)言われているし、パートナーがいる人はいる人で、クリスマスなど「彼氏いるなら早く帰らなくて大丈夫なの」とか言われている。
(こう書くと「セクハラでは」、という感じだが、セクハラぎりぎりの質問と、数年のよりよい関係性ゆえの質問がまじりあっている印象を受けるし、先輩社員に対して新入りの部類の自分が指摘できる勇気もない。)


今の会社にいれば、それなりの年齢で結婚して、出産しても仕事を続けられるし、家事や育児とも両立をさせることができるし、安定した職場だから年々給料も上がっていく。でもそれでもいいのだろうか。それを人生の目標にして、私は満足するのか、後悔しないのか。


では、自分のやりたいことをやれるほど自分には才能や運や人脈があるのか。自分は凡人のくせに、何を夢見ているのか。そもそも、やりたいこともあるけれど、それは確固たる1つのこととか、「覚悟」「決意」みたいなものでもない気もする。

そういう思いが、ずっと揺れ動いているままだ。

子どもがほしいかどうか、結婚したいかどうか、正直全然分からない。大学のときに、友人たちが「彼氏がほしい」と言っているのを傍目に、自分はどうなんだろう、と思い続けて4年間が終わったときみたいに、今後の人生も過ぎていきそうな気がする。

私は25歳になってもまだ、18歳のときの自分と何も変わっていない気がする。


「25歳になったけれど、まだ夢を追いかけていてもいいだろうか。」冒頭で提示したこの問いが、バカげた問いであり、いったい誰に許可を
取ろうとしているのか、謎であることは明らかだ。究極を言ってしまえば、世間の目があろうとなんだろうと、自分の人生は自分のものであるのだから、公序良俗に反しない限り、やりたいことをやっていいしやらなくてもいいし、それは個人の自由である。けれども、家族や親戚の圧力とか、例えば友人の結婚ラッシュとか、そういうものをまったく気にしないということだって不可能なのだ。


それでもとりあえず、私は、やりたいことをやっていきたいし、機会があれば挑戦する気持ちを忘れないでいたい。それに、どうにかこうにかもがいている自分が好きだから、避けられない障壁が現れない限り、やりたいことをとりあえず求め続けようと思う。

それははたからみたらみじめでかっこ悪く見えるかもしれないけれど、自分のことは嫌いより好きなほうがいいし。25歳になって、はじめてそんなことを考えた。年を取ることをおそれないで済む、とりわけ、女性が若さに価値を強く置かれない考えがもっと広がればいいのに、と、お正月ボケしながらも強く思った。

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