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僕には思い出がない

僕には思い出がない。
幼い頃の記憶が断片的に存在するだけで、思い出と呼べるほどの記憶の塊はひとつもない。
そんな中、かろうじて残っている記憶が父親と海に行った時の映像である。記憶なので映像と呼んで良いか分からないが、3秒足らずのそのシーンだけが映画のように今でも僕の記憶の中で動いている。しかしそれも本当にあったことなのか、僕自身が捏造して、捏造したことを忘れてしまったのか定かではない。他には何も無いのにその映像だけが鮮明に残っているのが逆に怪しい。

思い出とは記憶の呼び方である。
記憶とは反芻して思い返すことによって定着する体験の記録である。
良いことも悪いことも、まったく思い返さない僕に、思い出が無いのは当たり前なのだ。

なぜ僕は思い返さないのか。
なぜ僕は思い返さないようになったのか。
それは物心つく前の幼心の僕が決めたことだから、今の僕には分からない。
しかし、今の僕が同じ質問をされたらこう答えるだろう。

良い思い出は次を期待させそれ故に裏切られる、
悪い思い出は人間を萎縮させる。

幼い頃から僕は心に縛られたくなかった。心の重圧に耐えられなかったと言った方が適切かもしれない。
いつでも自由に生きたかったし、その時その時の景色を純粋にただ楽しみたかったのだ。
毎日沈む夕焼けを見て、心の底から「きれいだな」と思いたかったのだ。
僕は時々考えた、空を見ながら。
あの鳥には思い出があるのだろうかと。

僕には弟がいる。多分居る。もう何年も思い出してもいなかった。
父は死んでしまったが、母はまだ生きている。何年も会っていないし、普段は思い出しもしない。
家族を愛していないのかと訊かれたら、僕は返事に困るだろう。
しかし、誰かが家族の悪口を言ったのなら、僕はきっと許さない。
正確に言うと、僕が許さないのではなく、僕の中の失った記憶が許さないのだと思う。
その失った記憶が何なのか、今の僕には解らない。
しかし僕の中で普段は眠っている何かが、決して許すなと僕を追い立てるのだ。
そしてそれは紛れもなく存在した過去であり、記憶されないが故に書き変わることのない事実なのだ。

思い出なんてなくてもいい。
代わりの何かが僕のどこかに記録されているのだから。
それでもどうしても思い出が必要な時は、その時は、父親が海から拾ってきた貝殻を僕に見せてくれたことを思い出す。西陽を浴びて馬鹿みたいにキラキラ光るあの綺麗な貝殻を僕は思い出すのだ。

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