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最近の教育の風潮に納得しかねること

新年からある学習塾の代表の記事がネットニュースで連載されている。その最新の記事を以下に引用する。相当なボリュームであるが本文を全て掲載する。

● 新しい教育で注目のテーマとは?
 この連載では中学受験に的を絞り、さまざまな受験対策のヒントをお話しすると同時に、今、意識の高い親たちが見据えている「新しい教育」についても適宜お話ししてきました。
 世界の状況がめまぐるしく変わるなかで、ひとりひとりが今ある自分の資質と個性を頼りに、これからの世の中を生き抜いていかなくてはなりません。
 今回は日本の現在の教育システムの何が問題で、今後目指すべき方向性はどこにあるのかがテーマです。
 長年の学習塾経営の知見と、もう一つの仕事として取り組んでいる欧米チームで活躍する日本のサッカー選手のサポートの経験から、ひとりひとりの個性と能力を最大限に伸ばすための教育とはどういうものか、どのようなシステムならそれが可能なのか、そして、現場で起こりつつある新しい教育の胎動などを具体的に解説します。
 新しい教育を論じるには、まず、日本の戦後教育の特徴だった「アベレージ教育」の功罪について考える必要があります。

● 「アベレージ教育」の問題点  
 日本の教育システムの長年の問題点――その中でも特に顕著なのが、いわば「アベレージ教育」とも言うべき、クラスの生徒全員の平均的な学力向上を目指す教育方針です。
 こうした潮流は戦後から高度経済成長期、バブル経済を経て今日まで続いてきましたが、現在はその限界と無意味さが浮き彫りになっており、多くの人がそこに気づいています。
 私がつねづね疑問に思っているのは、住んでいる地域によって自動的に通う小学校や中学校が決まってしまうこと。例えば、ある公立小学校では芝生のグラウンドがあって運動に力を入れるとか、別の学校では卓球が強いとか、受験に特化していたり、体験型学習が特長であったりなど、学校ごとに特色があって自由に選べるようなシステムならよいのにと思います。
 現状では公立中学校への進学の場合、ほとんどの子どもたちは行きたい学校を選択することができません。これでは各人の個性や才能に合わせた教育を受ける機会が限られてしまう。
 それもあって結局、私立の中学校に行くしかなくなり、中学受験ブームが加熱しているのだと思います。住んでいる場所で自動的に学校が決まらず、もし公教育にもっと選択肢があれば、中学受験に向かない子どもたちも無理に受験に駆り立てられることなく、自分に合った教育を受けられるのではないか。
 私は親の仕事の関係で、子ども時代の一時期をスペイン・マドリードで過ごしました。6年生で日本に帰国したとき、学校のルール、いやそもそも常識がスペインと日本とでは大きく異なっていることに気づきました。
「遅刻ってしちゃいけないんだ」「授業中にトイレに立つときには、先生に許可を取らなくちゃいけないんだ(というより、トイレは休み時間に行っておくことになっているんだ)」と驚いたことを今でも思い出します。
 日本では犬の散歩の途中、飼い主がフンを拾って持ち帰るのがマナーですが、スペインでは道路を掃除する人の仕事を奪うことになるので、犬のフンを拾ってはいけないことになっています。また、スペインには「シエスタ」という昼寝の習慣がありますが、日本にはないことにも当初は戸惑いました。
 当たり前ですが、国によって価値観、もっと言えば、幸せの定義がそもそも違うので、教育の在り方も変わってくるということだと思います。

● なぜか勉強では「才能」を意識しない  
 サッカー選手を支援する仕事を通しても、教育に関して思うところがいろいろあります。私が経営する学習塾の生徒で、野球やサッカーなどスポーツをしているお子さんはとても多いのですが、親の9割は子どもをプロの選手にすることは、はなから考えていません。「スポーツの世界はもともとの身体能力がものを言うから」とか「スポーツは生まれつきのセンスである程度決まってしまうから」と言うのです。
 一方で、勉強に関してはどの親も「やればできる」と信じています。もちろん我が子について「やればできる」と信じてあげることは重要です。しかし実際には、勉強もスポーツと全く同じで、才能や向き不向きがあるものです。他人と同じだけ頑張ったからといって、同じ結果が出るというものではありません。そこを間違えると、子どもはとてもつらい立場に立たされてしまいます。
 また価値観という意味でも、スポーツの世界では中卒や高卒でも年収5億円を稼ぐ選手がいます。もちろん年収の多寡だけで人生が決まるわけではありませんが、これは学歴だけが成功の指標ではないことを示しています。しかし、日本の教育システムは依然として、一律の基準で子どもたちを評価しアベレージを引き上げることに傾注しているのです。
 余談ですが、若い世代で、スポーツの才能がとてもある子は、10代でヨーロッパのサッカーチームに引き抜かれ、ヨーロッパで活躍することが多くなりました。日本にそのままいてプロになるより、海外で活躍することが現実的に夢を叶えるチャンスになるという考えからです。
 もちろん日本人選手が海外で活躍するのはよいことですが、優秀な人材が海外に流れ、日本の競技レベルの地盤沈下が甚だしいことも問題です。このままでは、スポーツができる子は早い時点で日本を離れてしまい、日本にスポーツそのものの地盤が弱くなってしまうという懸念もあります。

● 成績「上下15%の子」の能力は本当の意味で生かされていない
 教育環境が変化する中、教育現場の思想が変わっていないことは大きな問題です。時代に合わせて教育の在り方も変化させていく必要があると思います。
 特に問題なのは、従来の日本の教育システムのままで、前述したようなアベレージ教育を続けると、通常の4教科の成績で「上位15%」と「下位15%」の子どもたちの才能や個性が十分に生かされないままになってしまうことです。
 勉強に限って見た場合でも、勉強が得意な子から不得手な子まで、40人を一つのクラスに集めて教育することは、子どもたちにとって本当に幸せなことなのでしょうか。成績上位の子が成績下位の子を知ることは社会の仕組みを学ぶ上で重要だという意見もありますが、クラスの中で、成績の上位と下位を混ぜることが、本当に社会の縮図と言えるでしょうか。
 むしろ、下位の子たちが上位の子たちのスピードについていけずに苦しんだり、かたや、上位の子たちは本当はもっと学ぶ意欲があるのに、下位の子たちの進度に合わせることで、せっかく勉強しようという意欲をそがれてしまったりする可能性もあります。
 お互いの能力を最大限に伸ばすためには、それぞれのレベルに合ったクラス分けをして、必要に応じて交流の場を設けるという方法があってもいいのではないでしょうか。
 これはなにも公的教育の場に限った話ではありません。今、大手の学校や塾では、様々な特性を持つ子どもたちを十分に見られなくなっています。それで個人塾や、個別指導学習塾には、4教科(国語、算数、理科、社会)の成績のバランスがよい子ではなく、成績に「でこぼこ」がある子が集まりやすくなっています。
 ある分野では非常に優れているが、別の分野は大の苦手というケースです。従来の4教科による評価では、このような子どもたちも4教科の平均値でランクづけされるため、各自が持つ、得意分野や才能を正しく評価されることがありません。
 上位15%の子どもたちは、「落ちこぼれ」ならぬ「浮きこぼれ」状態です。彼らは通常の授業では物足りなさを感じ、その才能を十分に伸ばすことができていません。中学受験はこのような「浮きこぼれ」を救う一つの方法として機能しているかもしれません。

● 4教科では評価されにくい才能を持つ子どもたち
 一方、下位15%の子どもたちも、現在のアベレージ教育では十分に個性や才能を伸ばすことができません。例えば、教科の成績がふるわなくても、文章を読むことが得意な子や、音楽的な才能がある子、スポーツが抜群にできる子など、4教科では評価されにくい才能を持つ子どもたちはたくさんいます。これらの子どもたちの能力を正しく評価し、伸ばしていく仕組みが必要です。
 一部の中学入試では、英語や中国語の試験を導入したり、プログラミングや物づくりの能力を評価したりする動きが出てきています。一科目入試のような、得意な科目で勝負できる入試形式もあります。従来の4教科では評価されにくかった才能を持つ子どもたちにとっては福音となり得ます。
 飛び級制度の導入も検討する価値があるでしょう。日本ではスポーツの世界では飛び級が認められているのに、学業ではごく一部の大学入試を除き、ほぼ認められていません。
 発達障害を抱える子どもたちについても同様です。発達障害の子どもたちが増えているというよりも、むしろ以前から一定数いた特性を持つ子どもたちが「発見」されるようになってきたのだと考えられますが、このような子どもたちに対して、地域で特別な教育を提供することも検討に値します。 似たような特性を持つ子どもたちを集めて教育することは、決して差別ではなく、むしろ効果的な教育方法の一つかもしれません。
 そして、オンライン学習などの技術の進歩により、子どもたちが使えるツールも変わってきています。パソコンの使用に長けた子どもは、キーボード入力のスピードや情報処理能力で他の子どもたちよりも優れた能力を発揮するかもしれません。鉛筆で書くのが苦手な子どもでも、パソコンを使えば優れた文章を書けるかもしれません。また、音声による学習が得意な子どもや、視覚障害のある子どもたちにも、新しい技術を活用することで学習の可能性が広がります。
 技術の話では、AIの発達に鑑みれば、これまでのように4教科にまんべんなく時間をかけて同じような教え方をする教育が有効なのかという点も多いに疑問です。注意深く選択すればYoutubeの動画などのコンテンツで専門的な知識や学術的な知識も十分に学べる時代です。もしかしたら、古文の活用形や、漢文のレ点については学びたい子や興味がある子だけが適宜AIを駆使しながら学習し、必修で学ぶのは英語と数学だけで十分な場合もあるかもしれません。
 技術の発展を教育に取り入れることで、より多くの子どもたちの可能性を引き出すことができるはずなのです。実際に、そうした変化に応じた先進的な取り組みをしているのは、まだごくわずかな学校にすぎませんが、多くの学校や教育機関が、アベレージ教育の限界に気づき始め、新しいことを取り入れようとしている段階にあります。

● 好きな教科しか勉強しない子をどう育てるか
 このような状況下で親はどのように対応すべきでしょうか。まず重要なのは、子どもの得意なものを伸ばすことです。従来の考え方では、苦手な科目を克服することに重点が置かれがちでしたが、それでは子どものやる気を失わせてしまう可能性があります。
 例えば、算数が好きで算数だけ勉強したいという子どもがいたら、それを止めず、絶対に応援するべきです。口が割けても「算数ばかりやらないで、国語や社会も勉強しなさい」などと言ってはなりません。社会や国語の勉強時間を減らしてでも、好きな科目に集中させてかまわないのです。子供にとって、好きな教科があるというのは本当にラッキーなことです。
 「いや、受験では国語や社会ができなければ……つまり不得意科目があれば合格できない」と思われるかもしれませんし、親御さんの世代やそれより上の世代は「アベレージ教育」を当たり前に受けてきて、「得意科目を90点から95点に上げることは、苦手科目を30点から70点に上げるよりも難しい」などと言われてきたのかもしれません。
 もちろんそうした側面もありますが、まずは得意な科目を伸ばすことで、子どもはいい意味での自信をつけられます。そこで身につけた前向きな気持ちは、子の成長全般にとって何にも代えがたいものです。その経験や達成感は他の科目にも波及し、必ず全体的な学力向上にもつながります。
 特に今の子どもは低学年から塾に通ったり、さまざまな習い事をしたりして、始終誰かと比べられ、自己肯定感を持つことが少なくなっています。好きな科目があること自体、楽しんで勉強ができるという利点があるうえ、結果、成績がよくなって褒められるというのは何にも代えがたい自己肯定感を得る機会となるでしょう。
 私はよく自分の塾に来る子の親御さんに「中学受験は1教科でも自分から勉強したいと思う好きな科目や得意な科目があれば、大成功です」とお話しています。それくらい好きなこと、得意なことを伸ばすことは、重要なのです。

● 学力一辺倒ではない入試も広がりつつある
 教育現場は日々変化しており、新しい試みや取り組みが行われています。例えば、プレゼンテーション形式の入試や、好きな本を読んで説明する入試など、従来とは異なる形式の入試が増えてきています。勉強が得意な子も不得手な子も普通の子も、子の個性や特長がどのようなものであれ、これからの時代は、従来の評価基準では輝けなかった子どもが必ず輝ける機会が増えてくることは間違いありません。
 親は常に新しい教育に関する情報収集を行い、アンテナを張っておくことで、子どもの才能や特性に合った教育機会を見つけやすくなり、子どもと同じクラスの子のほとんどが中学受験するから、うちの子も(平均から遅れないように)させなくてはならない、という横並び思想から距離を置くことができるのです。
 さらに、親は自分自身が時代遅れになっていないか意識する必要があります。今の6年生は東日本大震災を経験していない世代。令和生まれの子どもたちはもうすぐ小学生になります。時代の進みは非常に早く、親の常識が子どもたちの世界では通用しないこともあります。
 社会人である親自身も、職場では新しい考え方を実践していることが多いはずです。例えば、若い社員に、本人が苦手にしている点ばかり指摘すると離職につながるため、得意なことを伸ばす方針を取っているかもしれません。
 それなのに残念ながら、比較的多くの親が自分の子に対しては、急に保守的になり、旧来の価値観で4教科の勉強をしなさいと言ったりしがちです。職場で柔軟な人材教育や採用活動をしているなら、家庭でもその観点を持つことが重要です。

● 教育システムはすぐには変わらないが、確実に変わる予兆がある
 教育システムの大きな変革はすぐには起こりませんが、確実に変化の兆しは見えています。海外の全寮制学校をモデルにした学校が日本に登場したり、新しいタイプの通信制高校の登場など、多様な教育の形が生まれつつあります。
 この連載でたびたび言及している渋谷教育学園幕張(渋幕)や渋谷教育学園渋谷(渋渋)、広尾学園なども、従来の教育とは違ったタイプの教育を模索しており、先進的な意識の保護者の大きな支持を得ています。
 とはいえ、変革の方向性は学校によって様々です。「働き方改革」が定着しつつある現代ですが、昨年、楽天グループの三木谷浩史代表取締役会長兼社長が、一元的な働き方改革に疑問を呈し、働きたい人の「働く権利」も尊重すべきという趣旨のSNSの投稿をして物議をかもしました。
 学校教育の変革でも、最先端の技術を取り入れたり先進的な思想が特長だったりする学校もあれば、寮生活など規律の下で集団生活を送るといった厳しさを売りにする学校もあります。学生任せの自由さとは正反対のアプローチで、逆に人気を集めています。このように変化の方向が一様でないことこそが重要なのだと私は考えています。
 何が正解かということではありません。お子さんの得意なこと、個性を伸ばせる教育はどこで行われているのか。親はそのことを第一に考えて、新しい教育の可能性につねにアンテナを張っていてほしいと思います。

2025年1月19日 ダイヤモンドオンライン VAMOS 富永雄輔代表の解説

アッパー層は本当にこういう意見が好きだよなと嘆息する。あまりにつっこみ所が多い文章と感じるのだが、その一つひとつを指摘していく。

本当に学校は上下15%を切り捨てているのか?

現在、私の塾には上位15%に入る成績の中学生が5人いる。全員が公立中学校に通っている。彼ら彼女らは非常に学校生活が楽しそうだ。行事や部活でも中心になって活躍している。興味深いのは全員が「活動時間が長く負担が大きな部」に所属していることである。また友人も多く親のネットワークでもよく名前が出てくる子たちである。彼氏や彼女がいる率も高く休みの日にショッピングセンターで遭遇する率も高い感覚がある。
結局この子たちはバランス良くなんでもできてしまう。そしてそれを強固にするのが、現在の公立小中学校で幅広く行われている「学び合い」や「グループ学習」である。これらは元々の学力が高くないとできないので、この上位15%がクラスや班を引っ張って議論を進めていく。フォロワーの生徒たちはこのできる生徒頼みなのである。ここで一昔前のように嫉妬等で足を引っ張っては全てが崩壊する。また「できる子たち」の方がコミュ力が高いのでグループLINE等で人間関係の管理もバッチリ行えていて、引きずり降ろそうものなら反対に返り討ちにあうような構造だ。
こんな感じで意図したか否かは分からないが「できる子たち」に居心地のよい場に現在の学校はなっている。

次に下15%の話であるが、2年前に教員を辞めた友人が話していた言葉が忘れられない。「1割のできない子に9割の時間を取られるのが今の学校だ」と。確かに以前よりも学力不振の児童生徒に今の学校は寄り添う。100点満点の10点でも「やる気はあるので大丈夫です」と励ます。こういう児童生徒のご家庭に対しては懇談の時間は少し長めに取ってあり、連日放課後に電話等で連携を取っているようだ。
富永氏が公立学校に抱いているイメージは00年代の前半までの学校であるような気がしてならない。結局学校のサポートが薄くなっているのは中位層なのである。だから私の塾にもこの層が多くやってくるのである。

今の時代は個性を求めているのだろうか?

富永氏の文章の後半に多く出てくるキーワードが「個性」である。
「これからの時代は個性が大切です。それを潰すような教育はあってはなりません。」
「得意なことをまず伸ばすことが大切です。苦手なことは後回しでも構いません」

どちらも20年来言われている気がする。しかしその間に実社会で進んだのは「無個性でマルチに結果を残す人物」が評価されるように変わってきた現実がある。
イチローと大谷翔平、中田英寿と久保建英、本田圭佑と三苫薫、ダウンタウンと令和ロマン、モーニング娘。と乃木坂46。
どちらが個性豊かだろうか?私は全て前者だと感じる。そして後者に「優等生」が多いと感じないだろうか?また9教科トータルで結果を残しそうな面々は後者である。
「個性が大事」と言われる割に、ネット社会の中で強烈な個は排除されるようになっている。そして育ちがよく広い分野においてマルチな才能を没個性で発揮する人材に人気が集まっている。
そもそもいつも思うのは「学校で潰されるくらいの個性は個性ではない」のである。管理教育を受けてきた私たちの方が今の小中学生よりよほど個性が強かったのは不思議である。「個性が大事」と言う人に限って、それを最も制限しようとするICTやAIが大好きなのも興味深い。私が大学生の時の写真を見ると友人6人全員が違う髪型をしている。モヒカン、短髪、赤毛で立てている、キムタク風パーマ、坊主、ウルフカット…それに対して現在私が担当している大学の最前列の男子は全員がセンターパートかマッシュである。個性云々は教育でどうなるものでもない。寧ろ管理し抑圧された反動から生まれるものである。

新しい教育はこれからの時代に本当にマッチするのか?

私が最も言いたいのはここからである。富永氏が推奨する「新しい教育」は、多くの専門家や先進的な保護者が主張・支持する手法である。「失われた30年」のアンチテーゼとして噴き出す意見なのであろう。確かに管理教育を受けてきた世代がバブル崩壊からの回復に手間取り、ロスジェネと呼ばれ技術や能力を身に付けることができずにダラダラとここまで来てしまった。その反省から80年代~90年代にされていた教育からの脱却を求めていると認識している。我々が受けてきた教育は役に立たなかった。だから「新しい教育を!」となる気持ちは分からなくない。
しかし私はこの「新しい教育」こそ「シン失われた30年」の引き金になると考えている。結果「失われた60年」となりグレートリセットか、国家が成り立つか否かくらいの瀬戸際の状況になると予測している。
80年代~90年代こそ、今行われている自由闊達な教育が施されるべきだったのだ。その反面この20年代以降の教育は管理教育の色を濃くしていった方が良いと考えている。理由を以下に書いていく。
世代人口が200万人程度存在した団塊ジュニアは社会に「安定した正社員」の椅子が人数分存在しない世代であった。皆が波平やマスオ、野原ひろしのような立場になれない初めての世代だったのである。だからこそ自ら椅子を作り出し、同世代の仲間の為の椅子まで用意できるようなクリエイティブで新しい発想を持った人材を多く生み出す必要があった。アメリカが自動車産業で日独の後塵を拝したもののGAFAを生み出し、世界のトップを走り続けたのはこの世代にそんな教育を施したからであろう。加えて世の中もどこかおおらかで自由を許す風潮があった。しかしそんな時代を生きる70年~80年代初頭生まれに管理教育を行ったのが最初の失敗であった。
次にこれからの時代は世代人口が70万~100万人くらいになる。大学生の椅子も社会人としての椅子も余るほどある。「より良い仕事に就けない」という悩みは未来永劫続きそうだが「仕事が無い」という悩みからは解放されるのがこの世代である。彼らに最優先される仕事が「キラキラした先進のクリエイティブな職業」であれば相当未来はバラ色なのであるが、実際には「数多くのインフラの整備や補修や解体」または「介護」に就く人材の割合をどんどん増やすことが喫緊の課題となるだろう。加えて「運送・配送業」がそこに加わる。
仕事の大枠はAIが決めていくことになるだろう。人間はそのAIが指し示す作業内容を迅速に粛々と進めていく仕事を担当することになる。高度経済成長期に作ったインフラや建築物が次々と寿命を迎える。その補修に多くの人を駆り出さなければならない。人間が足りていない状況は今の能登半島を見ればよく分かる。そして数多くの介護や医療を必要とする人間が増えていく。毎年200万人の高齢者が増えていくことを想定すると毎年30~40万人は医療介護職に就くことが必要となるだろう。そこで「自由な発想!」とか「週休3日!」とかをしていれば早晩糞まみれの施設の中で多くのお年寄りがどんどんと倒れていく。したがって人材に凸凹があまりない方が良い。アベレージ型の集団が適している職業がどんどんと必要になるのが今後数十年である。
ここが私にはよく分からないのである。これからの時代に人手が必要になるのはどう考えても「決められたことを淡々とこなす体力お化け」であるはずなのに、今の教育目標のベクトルは逆を向いている。多分30年代の前半くらいにこの矛盾が噴出するだろう。「なぜ教育業界は子どもたちを甘やかしてきたのか」となることは目に見えている。私の予測ではその頃に南海トラフ等の大規模な災害が起こるので、それがきっかけになるかもしれない。

だからこそ世の中を引っ張る識者や教育専門家の言うことが全く腑に落ちない。これからの時代に休みを増やし得意だけを伸ばし見せかけだけの学力しか有していない子に付け焼き刃のコミュ力で乗り切れる入試を中心にすることは、社会の崩壊をただただ促進するだけではないかと考えている。結局ポリコレに沿って、多くの人の耳触りの良い意見をよく考えずに発しているだけなのだろうと推測する。またそのような意見の方が受けが良いので、本が売れたり講演に駆り出されたりとマネタイズに都合が良いのであろう。
今日のnoteには多くの反論がくるかもしれない。できれば賢い方から意見を頂きたいものである。私の未来予想図は間違っているのだろうか?





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